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こんなおかげ頂ける道【金光新聞】

脳梗塞

 おととしの春、私(46)が奉仕する教会の信徒会長だった義夫さんが、89年の生涯を終えました。
 義夫さんは、金光教を熱心に信仰する家庭で育った奥さんとの結婚を機に、信心とのご縁を得ました。その人柄は優しくて、いつも笑顔で人を和ませ、教会のご用には心を尽くして当たってくれました。
 そんな義夫さんが、脳梗塞(こうそく)で倒れたのです。突然の事態に、私はただただつらく、神様に回復を祈りながら、義夫さんとの出会いからのことを振り返っていました。
 義夫さんとのご縁は、今から21年前、私がこの教会に後継者として入ることになった時から始まりました。
 義夫さんは夫婦で日参を続け、二人の娘さんにも信心はしっかり伝えられていました。先代教会長の晩年には、その手足となって教会のご用を務め、教会後継者のことも、わが事として一心に神様に願い、私が後継に入ることが決まると、それはそれは喜んでくれました。
 当時、金光教本部(岡山県金光町)でご用を頂いていた私は、教会へ入るまでの数年間、ご本部から車で一時間ほど離れた所にあるこの教会に通いながら、ご用をさせて頂いた時期がありました。

 そんなある日、教会の中心的な信徒が集まって役員会が開かれました。その席で、義夫さんは、「先生は、これまで教会へ何回ご用に来てくださった」と、私が通ってきた回数を、みんなの前でうれしそうに言ってくれたのです。義夫さんは、私が通ってきた一回一回をしっかりと記憶し、心から喜んでくれていたことを、心底感じました。まだ若く、経験も乏しい中で不安を抱えていた私は、この言葉にどれほど勇気づけられたかしれません。

ご神米を頂いたよ

 その後も、義夫さんは陰となり日なたとなって、教会での私のご用をはじめ、私たち家族を支え続けてくれました。私がこの教会でご用を続けることができたのも、義夫さんの深い祈りがあったからこそだと思うのです。
 義夫さんは命を取り留め、一時は自宅療養が許されるまで回復したものの、再び容体が悪化していきました。私は、奥さんと娘さんと一緒にお見舞いに行きました。義夫さんの足先は壊死(えし)が始まり、鼻からは流動食の管が通されて、娘さんの呼び掛けにも反応はありませんでした。しかし、「おじいちゃん」と奥さんが再び呼び掛けると、義夫さんは目を開けました。苦楽を共にしてきた夫婦のきずなの深さを感じた一瞬でした。
 その直後、娘さんが「先生からご神米を頂いたよ」と声を掛けたところ、義夫さんはそれまでうつろだった目をしゃんと開け、ご神米と私の顔を交互に見て、「おーおー」と声を出して、にっこりほほ笑んだのです。

 その時の義夫さんの笑顔を、私は忘れることができません。私はその表情に励まされ、抱きかかえられたような気がしました。「意識がほとんど無い状態になっても、人に元気と喜びを与えている。義夫さんは神様を現わしている。この道の信心は、こんなおかげが頂けるんだ」。私には、義夫さんが信心のありがたさを伝え、おかげを受けてきたお礼を言っているように思えたのです。
 「先生、よろしくお願いしますよ!」。今でも義夫さんの笑顔とともに、その激励の声が聞こえてくるようです。
メディア 文字 信心真話 金光新聞 

投稿日時:2010/01/14 11:31:25.979 GMT+9



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