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「迷信」と「信心」は違う 【金光新聞】

人形のたたりなのでは・・・

 おととしの3月のことです。知人の安子さん(57歳)から、こんな相談を受けました。
 「27歳になる娘のために、久しぶりにひな人形を飾ったのですが、先日、片付けをしようと人形の顔を見ると、額から頬にかけて染みのような汚れが付いていたんです。飾った時には、染みは付いていなかったんです。思えば最近、娘の顔に、にきびのようなものが増えてきていて、これは人形のたたりなんじゃないでしょうか。
 懇意にしている祈祷(きとう)師から、『たたりがあるかもしれないから、その人形を持ってきなさい。厄払いをして焼却してあげよう』と言われましたが、娘が生まれた時から大事にしてきた人形を焼くのは忍びないんです。金光教ではこんな時どうされるんですか」

 突然の相談に、私はいささか戸惑いながら、安子さんが持参したその人形を見せてもらいました。
 確かに、顔の右半分の色が違っていましたが、私にはただの染みにしか見えませんでした。
 安子さんは、世間でいうところの「信心深い」人でした。神棚や仏壇への毎日の拝礼、神社仏閣への参詣に加え、日柄方角などの縁起も担ぎ、時には占い師の所へも通っていました。

「この人形を大事にして、孫の代まで飾ります」

 私は、金光教の信心に基づくものの見方について、次のように話しました。
 「テレビ番組などでは時々、人形の髪の毛が伸びるなどの心霊現象を取り上げて、人の恐怖心をあおるものがありますが、果たして本当でしょうか。仮に本当だというのであれば、そこには亡くなった方の思いが現れているということでしょう。
 でも、あなたの娘さんは今も元気にしていられるのですから、こう考えてみてはどうですか。娘さんのにきびが、ひどくなっていたかもしれないところを、おひなさまが身代わりになってくれたのだと。そうすれば、恐れを感じていた人形に、感謝の気持ちが湧いてくると思いますよ」
 その上で、私は金光教には忌み汚れ、日柄方角などで、神様が人間を苦しめるようなことはないことをお話しさせてもらいました。
 私の話を聞きながら、最初のうちは納得されたような、されていないような顔つきだった安子さんでしたが、やがて、何か感じるところがあったのでしょう、「ありがとうございました。この人形を大事にして、孫の代まで飾ります」と言って、帰っていかれました。

 世間では安子さんのように、「迷信深い」ことと「信心深い」ことを混同して、神仏を「畏(おそ)れる〈敬いかしこまる〉」のではなく、たたり障りに遭わないように「恐れる〈恐がり、遠ざける〉」ことを信仰と思っている人も少なくありません。
 しかし、感謝やお礼の心を持って神様に向かい、物事を受け止めていくことで、やみくもに恐れていた神様が、実は私たちを慈しみ、見守ってくださる親のような存在だと気付き、難儀に感じていた出来事の中にも、おかげを見いだす世界が開けていきます。
 安子さんとは、この後も幾度か、信心について話す機会がありました。もともと、神様を尊ぶ気持ちを持っておられただけに、その後、私が紹介させて頂いた自宅近くの金光教の教会へ参拝し、今では熱心な信奉者として、日々、神様への感謝とお礼の信心をされています。
メディア 文字 金光新聞 信心真話 

投稿日時:2012/03/09 13:34:20.905 GMT+9



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