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みたま様の〝声なき声〟 【金光新聞】

沖縄遺骨収集

太平洋戦争の終結から60年が過ぎようとしていた平成15年、私は初めて沖縄遺骨収集に参加しました。
 沖縄戦最後の激戦地となった「摩文仁(まぶに)の丘」から海側に入った断崖が収集場所でした。熱帯樹木が生い茂り、いまだに黒々と焼けた艦砲射撃弾の跡が所々にありました。
 私はベテランの方から少し遅れて、生い茂る木々の中を進んでいくと、木に白いビニール袋がぶら下がっているのが目に入りました。「何だろう」と中を見て、思わず「ぎゃー」と声を上げて飛びのきました。そこには何と、真っ白の頭蓋骨が入っていたのです。
 その時、参加者の一人が戻ってきて、断崖の上を指さし、「あの小さな松の木に引っ掛かっていた」と言われました。60年もの間、野ざらしになっていたのです。

黒アゲハ蝶に宿るみたま様

 2日目は、自然壕(ごう/ガマ)での収集でした。摩文仁の丘の平和祈念公園内に建てられている慰霊碑のすぐ後ろにあって、人一人通るのがやっとの穴を7、8メートルほど下った所での作業では、ご遺骨をはじめ、軍刀や手りゅう弾、弾丸のほか、手鏡やくし、せっけん箱、赤十字マークの入った鞄、手帳などがどんどん出てきました。軍人だけでなく、民間人がいたことが分かります。その人たちには親があり子があり、夫や妻があり、友があり、恋人がいたことでしょう。それが戦火の下で追い詰められ、こんな狭い壕の中で、何を思って亡くなっていかれたのか。そんなことを考えると、何とも言えない気持ちになりました。
 私たちは、壕の入り口から3メートルほど上がった平らな場所に白布を敷き、見つかったご遺骨や遺留品を並べました。
 すると、どこからともなく黒アゲハ蝶が現れ、白布の上を旋回し始めたのです。そして私の目の前に飛んできては、また白布のところへと戻っていきました。それを3回繰り返しました。
 私は、ご遺骨のみたま様が来られていると直感しました。というのも、その前日、地元の方から、「沖縄では、みたま様が黒アゲハ蝶に宿って戻ってくる」と聞いていたからです。

 この時、みたま様の声なき声が心に聞こえたように思いました。「なぜ、人は今なお戦いを繰り返しているのか。こんな悲しみは私たちだけでもう十分。どうか平和な世の中に、平和な沖縄にしてください」と。私は震えが止まらず、ただみたま様方に申し訳ない気持ちでいっぱいになり、その場でおわびしました。
 戦争は、殺し、殺され、焼き、焼かれることです。痛くて、臭くて、心細くて、腹が減り、苦しくて、とても恐ろしいものでしょう。また、今もなおその後遺症に苦しむ方がおられるように、戦争の苦しみは、一度経験したら何十年も消えることはないのです。
 人間の親たる天地金乃神(てんちかねのかみ)様は、神の氏子である人間同士が争う姿を、どれだけ嘆かれていることでしょう。また、みたま様方も、愚かな戦いは二度と起こさないようにと訴え掛けておられるのではないでしょうか。
 放っておけば争ってしまう愚かな私たちであるからこそ、改まりを祈り、平和への意志を強く持たせて頂きたい。そのために一人でも多くの方に、みたま様方の〝声なき声〟を聞いてもらいたいと、毎年、若者たちに声を掛け、遺骨収集に参加させて頂いています。




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メディア 文字 金光新聞 信心真話 

投稿日時:2012/04/25 09:44:00.333 GMT+9



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