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信心継承は末の安心、神様のお喜び

金光教報 『天地』 4月号 巻頭言

 花々が山野を彩る春を迎え、ご霊地では三月三十日、四月三日、六日、十日と、天地金乃神大祭が教主金光様ご祭主のもと、本部広前で執り行われる。そのごひれいを頂いて、各地のお広前でも同様に仕えられる。
 天地金乃神様は天地の親神様であり、そのお徳は天地に満ちわたり、もの皆を生かし育みたまう働きは、天地と共に尽きることはない。とりわけ私たち人間を、神のいとし子と慈しみ、そのいとし子を助けたいとの願いのもと、教祖の神を差し向けられ、生神金光大神取次をもって、「神も助かり氏子も立ち行く」世界へ誘いつづけておられるのである。
 教祖様のご事跡を見ると、教祖様お一人の信心から家族が助かり、先祖が助かり、さらに家族から親族、知人・友人、村人へと助かりの世界が広がり、空間的には横に、時間的には縦に、助かりの輪が広がっている。
 そのように、この道の信心によって、社会の最小単位である一人ひとりが助かり、その一人ひとりが中心になって、一軒一軒の家が先祖から子孫まで助かり、さらに知人・友人、社会へと、助かりの輪が広がりいくことが願われている。この道の信奉者一人ひとりには、そのような親神様の大きな願いがかかっているのである。


 「アメリカの中央山脈であるロッキー山脈の一番高い所の大きな岩の上に、大きな雨粒が二滴落ちました。一滴は頂上のやや東に落ち、もう一滴は少し西に落ちました。その雨粒が流れ流れて、一方は太平洋に行き、他方は大西洋へと流れていきました。落ちた所はほんのちょっとの違いでしたが、先では大変な違いとなりました」
 これはある先師のご理解の一部であるが、このロッキー山脈の例えを人生に押し広げて考えてみると、それぞれの人生に信心があるかないかの違いは、それほどの違いが生まれてくるのだということであろう。
 一方へ流れる人生が助かりで、ご神慮であるとするなら、教祖様に始まる取次の業は、お互いの人生をその方向へ流そうと、常に働きかけてくださっているのである。先祖以来、この道にご縁を頂いたその日から、そのお働きを頂きどおしに頂いてきている私たちである。しかし、そのお働きに包まれ、その流れの途上にあることをなかなか自覚せず、目先のことや我情我欲にとらわれ、すぐに反対方向に流そうとするところから、思うようなおかげになりにくいし、代々繁盛、末繁盛にもなりにくい。
 先祖以来、助かりへ道付けされてきた信心と、おかげの事実を自覚して、その流れを自分も頂いて、太くても細くても同じ方向に流れを維持する努力が必要になるのである。
 また、ある先師は、教祖十年祭に参拝し、そのお徳の偉大さに気づき、「自分はどうにかして父の失敗を取り返し、物質上の成功者となって家運を挽回したいと焦ってきたが、真の家運の挽回は物質上の利得ではない。このような無形の徳である。自分もできることなら、教祖の神様のご修行の片端でもまねさせていただいて、ただの一人でも助けさせていただくことができたら、亡くなった祖母の霊も救われ、父母にも安心してもらえるのではなかろうか」との考えに至った。
 その後、時期を得て、いよいよ商売をやめて本部の教義講究所(現・金光教学院)に入ることになった時、先師をかわいがった祖母の霊(みたま)が先師夫人の夢枕に立ち、うれしそうに「これからお道の教師になってご用することになれば、三年もすれば自分のものは家屋敷までなくなるが、先はまことに結構になるぞ」と予言したのである。先師は教師となって後、多くの問題を抱えながらも、助かりへの流れを狂わせることなく、その流れを貫きとおしていった。以来、百年余、先師の子孫代々、「先師の貫いた流れの方向」を狂わせることなく、受け継ぎ実践しつづけ、生神金光大神取次の道の実現として、縦横に助かる世界が広がりゆき、真に結構なこととなってきている。
 一人ひとりの信心の頂き方次第で、ご神願成就の世界は限りない可能性を開くことになる。天地金乃神大祭をお迎えするに当たって、一人ひとりにかけられた親神様の願いを自覚し、それぞれの家が代々繁盛のおかげをこうむるべく信心の課題を明確にし、具体的な信心実践に取り組む願いを新たにさせていただき、信心継承、末の安心、神様のお喜びに向け、共に歩みを進めてまいりたい。

投稿日時:2014/04/07 08:41:04.755 GMT+9



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