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教師家庭の信心─金光キクヨ姫五十年に当たって

金光教報 『天地』6月号巻頭言

 教祖様ご生誕二百年の今年も六月を迎え、八日には教団独立記念祭が執り行われ、引き続いて、「神人あいよかけよの生活運動」全教集会が開かれる。
 「運動」の実践の場、そして、「結界取次の充実」を支える最も重要な場として、教師家庭がある。教師家庭の始まりは教祖様のご家庭であり、それに続く歴代金光様のご家庭も、全教の教師家庭の基であると頂くことができよう。

 今年は、三代金光攝胤様夫人であられた金光キクヨ姫の五十年の式年に当たる。キクヨ姫は、芸備教会初代教会長・佐藤範雄師と照師を父母として世に生を受けられ、長じては金光攝胤様に嫁がれて、教主ご家庭の釜の柱と立たれ、形に影の添うごとくご用をお進めになられた。そして、三代金光様ご帰幽の翌年、昭和三十九年の六月十九日、七十八歳をもってご帰幽になられた。
 キクヨ姫の三十年の式年に発行された『金光キクヨ姫』から、その日常の一端をおうかがいするに、
 「母の指はリューマチで、まともな指はありませんでした。夜寝てからも、布団の上で指が痛んで、どうすれば寝られるかと神様にお願いしながら、手を上にしたり、横にしたり、裏返したりなどしているなかに、はや二時になって、それでも二時にはきちんと起きさせていただき、ご神飯や金光様のお食事のお仕度、お出まし前のお掃除までちゃんと済まされ、金光様のお供をして、お広前にお参りなさっておられたのですね。内玄関は畳二畳敷きですが、これを斜めに歩くのに、小さい歩幅で三十何歩でようやく歩かれたほど、足の悪いこともあったのだそうです。そのなかを、一心に神様へおすがりし続けられて、ご用には全然差し支えがなく、お礼を申し続けておられました」
 「ご神米調製のご用をするのが、お母さん(キクヨ姫)と三人です。もし、そのなかの一人が病気にでもなって、ご神米が足らないようになると困るから、ご大祭が済んだ時に、次のご大祭の分があるぐらい用意をしておられました。それがいつものお母さんの方針でした」「晩年の母について、私が印象に残っているのは、立教百年祭の時のご神米調製のご用のことです。箱へ番号をつけられ、四十一か二箱こしらえておられます。…一箱は六千体です。十箱で六万、四十で二十四万体、それだけ作られ、箱につめられた。百体ずつ包んでつめるという作業をされました。だんだん年をとるにつれて神経痛が出て、指が曲がっておられたんですね。その曲がった指でご用をしておられたことが印象に残っております」
 「私の長男が亡くなりました時も、一週間目ぐらいに上京して来られました。…子供を亡くして力を落としている私たち夫婦を、力づけようとされている思いが、口には出されませんけれど、ひしひしと感じられ、ある時は、『喜ぶことの稽古をしなさい。喜べなかったら、喜ぶ方法を考えなさい。そうしていると、心から喜べるようになります』と教えられましたが、これはご自身、お子様をお亡くしになられたご体験からのことだ、と思います」
 このようにご家族の方々は、ありしキクヨ姫のお姿をそれぞれの立場から伝えておられるが、いずれも、実意を込めてすべてを大切にされるキクヨ姫の尊いご内容として伝えられたものである。
 「親は百人の教師に勝る」というが、そういう環境のなかで、四代金光様も現教主金光様もお育ちになったことを思うと、あらためて教師家庭での信心生活のあり方を考えさせられる。教主として、教主夫人として、生活のなかに、神様へのご用のうえに、実意を尽くしていかれた三代金光様・キクヨ姫ご夫妻のお姿は、本教教師の手本であり、教師家庭の手本でもある。

 教団の活動方針に、「結界取次の充実と助かりの実現」と「『神人あいよかけよの生活運動』の推進」を掲げて、全教で取り組みを進めているが、その展開は、教師、教師家庭のあり方にかかっているともいえよう。
 教祖様ご生誕二百年のお年に、教祖様のご生涯に思いを寄せ、教祖様のお道開きのご苦労と、そのご苦労に添い、共に歩まれた教祖様ご家庭のあり方、そして、歴代金光様ご家庭、とりわけ五十年をお迎えした金光キクヨ姫のご修行の一端を拝察させていただき、恐れ多いことながらお手本とさせていただいて信心生活に取り組み、それぞれに半歩でも一歩でも前に進ませていただきたい。

投稿日時:2014/06/01 16:00:01.743 GMT+9



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