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本教の財は信心から生まれる

金光教報 『天地』 7月号巻頭言

 財。生かして使えば人を助けることにもなり、使い道を誤れば人が助からないことにもなる。先人は、銭、金、財についていろいろと語っている。
 「金持ちがどんなにその富を自慢しているとしても、彼がその富をどんなふうに使うかが分かるまで、彼を褒めてはいけない」(ソクラテス)
 「そもそも人は所願を成(じょう)ぜんがために、財を求む。銭を財とすることは願ひを叶ふる故なり。所願あれども叶へず、銭あれども用ゐざらんは、全く貧者と同じ。何をか楽しびとせん」(吉田兼好)

 それでは本教の財とは、どのようなものであろうか。
 本教は、天地金乃神様が、神と人とあいよかけよで立ち行くあり方を世界に実現するため、教祖生神金光大神様に取次を頼まれ、教祖様がこれを受けられたことに始まる。「生神金光大神取次」は、爾来(じらい)、今日まで休むことなく続けられており、本部広前では教主金光様により、全国の教会では教会長によって、毎日奉仕されている。
 生神金光大神取次とは、人の願いを神に祈り、神の願いを人に伝えて、神と人とを結び、神と人と共に助かる神願を実現していく働きである。この取次を願い、頂くことをとおして、天地の恵みと働きのなかで生かされて生きていることに感謝する時や、人生におけるさまざまな問題の解決を求め、そこからの立ち行き、助かりをお願いする時、また、そのおかげを頂いて、お礼をさせていただく時、さらに、ご神願を実現するために特別にお役に立ちたいと願う時など、神に対するさまざまな思いから自発的にお供えをさせていただく。そのお供えは、お結界をとおして、取次者によってご神前に供えられ、お供えをした人の真心が神に取次がれる。
 このように「取次」の働きによって生み出された財が、本教の財である。そして、この財は、神の願いを実現するために、すなわち、難儀な氏子が生神金光大神取次を願い、頂くことによって助かることのために、その役割を果たすべきものであろう。財が信仰の発露であるならば、また、その運用も信仰の発露にならなければならない。このことは、教団にあっても、教会にあっても同様であろう。

 ある先師のご信心を頂いてみたい。師は、財というものの値打ちは、財そのものにあるのではなく、それを生み出す真(まこと)、それから生まれる働きにあると言われる。
 大正十四年四月十四日、本部の大教会所が一夜にして焼失した時、全教は色を失ったといってよいほどの衝撃を受けたことであろう。この知らせを受けたある教師は、急ぎご本部に参拝する途中、関門連絡船の中でその先師に出会われ、「私どもは、焼けるところを助かってこそ、おかげを頂いたと申しておりますのに、何と言って信者に教えたらよいのでしょうか」と訴えられたそうである。すると、師は平然として、大教会所ご建築のために二十数年もの間、命がけのご用をしてこられた師とも思えぬご態度で、「あなたは、そんなちっぽけなことを考えているのか。形あるものは焼けることもあれば、壊れることもある。しかし、それを生み出したものは、私どもが頂いている信心である。信心さえ焼けねば、あれ以上のものが、いくらでもまたおかげを頂いて建てることができる。私は、今度こそ、この前にも増して大きなご用をさせていただきたいと思い、張り切って上がらせていただいている」と言われたという。
 焼けて失望するぐらいの信心なら、それぐらいの神様としか頂いていない。さらに奮い立ってそれ以上のご用を願う者には、それだけの神様のお働きを頂くことができる、と諭されたのである。師にとって、建ったものを大切にすることはもとよりであるが、むしろそれを生み出す働きである信心を、どこまでも問題にし、大切にしておられたのである。

 教祖様は、「広大なおかげというが、おかげとはめいめいの真に映る影のことであるから、神に大きな真を向けてみよ、大きなおかげがわが身にいただける。小さな真で大きなおかげはもらえない。影は形に添うと決まったものである」とみ教えくださっている。本教の財も、信心と切り離れたものではない。共々に、めいめいの信心をしっかりとさせていただき、ここからのおかげをこうむってまいりたい。

投稿日時:2014/07/01 09:08:24.834 GMT+9



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