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本教の布教─国際センター設立20年を経て

金光教報 『天地』 11月号巻頭言

 教祖110年の平成5年7月、金光教国際センターが設立された。当時は次のような認識があった。
 国際社会といわれる現代は、交通手段、情報技術、経済活動などの急速な発展により、一個人、一家庭の生活も世界の動きと密接に関わり、あらゆる問題が一国内だけでは解決できがたい状況を呈してきている。そのなかにあって、本教は異質な文化や価値観を有する世界・人類からの問いかけを受け止めるとともに、本教からもわが道の信心を積極的に発信していくことが、社会存在としての教団の責務である。ことに、昭和58年の教祖100年祭時に刊行された金光教教典によって、「おいおい三千世界、日天四の照らす下、万国まで残りなく金光大神でき、おかげ知らせいたしてやる」「世界をこの道で包み回すようなおかげが頂きたい」といったみ教えに触れ、世界・人類救済への大きなご神願を頂いていくことになった。その取り組みの一つとして、同センターの設置が願われたのであった。
 以来、パラグアイのアスンシオンと韓国のソウルでの活動センター設置と広前の誕生、北米区域やハワイ区域など世界各地の布教拠点との連携、国外信奉者のネットワーク化、教典や教典抄、教祖伝をはじめとした布教材の各国語への翻訳など、さまざまに取り組まれてきた。昨年、設立20年を迎えたところから、同センターでこれまで20年間の総括を進めているところである。
 ところで、昨年実施した教祖130年記念シンポジウムの講話で、「アメリカという異文化のなかで教祖様を追い求め、外から日本を見つめていると、教祖様の時代からすれば今の日本は、日本とアメリカほどの文化の違いがあるのではないか」との指摘があった。
 現代日本の抱えるさまざまな問題の元には、経済至上主義の考え方や競争社会の原理が当然視され、人間の全体性や統一的人格より、特化された技術や能力が注目される傾向が見られ、普通のことが普通にできることへの喜びや意味が見失われてきているように思われる。「実意」「丁寧」など、本教の信心生活の営み、実践にとって不可欠とも言える大切な言葉さえも、死語になったと言われる状況とも重なるものであろう。そして、自分だけは楽をして、よい目を見たいとする心情は、大人・子どもを問わず共通のものとなっているようにも見える。したがって、人間をそこに住まわせ、生かし育む天地の力、あるいは、そうした神と人との本来の間柄とその宗教的意味を承服させるべき信仰の言葉は、いよいよ人々の心に届かなくなってきていると感じさせられる。 本教から見ると、「異質な文化や価値観を有する」という点では、世界も日本も同質であると言えよう。
 他方、昨年、はじめての南米信奉者大会を開催したブラジルでは、各教会で、日本国内で師匠から教えられた金光大神の信心、とりわけ何事も神様のお働きのなかでのことであり、生活のなかに起きてくるすべてのことをありがたく受けていく信心辛抱と、そのなかに神様のおぼしめしを頂いていく「先を楽しむ信心」を説いてきている。日本とは文化も生活習慣も異なる地で、金光大神の信心が受け入れられ、日系人の教師と共に、現地人の教師が誕生している。
 教祖以来の本教の布教は、取次広前を中心とした信心実践のなかで、師匠から弟子へ、人から人へと伝えられてきた。一人ひとりによって実践される信心を大切にし、そこに焦点を当てて見ると、信心をするという営みは、信心の道に入り、道の働きのなかで育ち、道を求めるという一連の実践の展開であるといえる。信心とは、道という信心の実践共同体に参入することによって、学び、育つことが可能となるものである。
 お道にご縁を頂いた人が、そこにいる人たちの姿などに触れていくなかで、信心する人の心身の形や構え、振るまいなどに接し、それを身につけていく。あるいは、神に触れた人、「神人の道」を歩む人の言動や姿に魅せられ、思わず知らず、その人の生き方やあり方に近づきたいとして、まねる。そうした働きが起こる中心となるところが、本教の取次広前、すなわち教会である。
 今日の世界は、インターネットなどの情報通信技術の進歩により、瞬時に世界中のことが知られるようになり、個人でも世界各地にいる人々との情報交換や、世界に向けての情報発信が容易になった。信心の伝わり方にも、さまざまな形や可能性が生まれてきた。国際センターや本部の公式ホームページをとおして、海外から本教に関する問い合わせのメールが届く。国際センターでは、現地に赴いて直接に相対せずとも、SNS(ソーシャルネットワーキングサービス)をとおして質問に答えたり、スカイプを利用したご祈念会や教話の取り組みが行われている。
 取次広前を中心にして、信奉者が信心実践に取り組む教会が、生き生きとその働きを現し、信奉者一人ひとりが、それぞれの生活で広げられていく信心実践の核となっていくことが大切である。そのような小さな信心実践の共同体の総体が、本教であると言えよう。世界布教の取り組みも、手もとの信心、すなわち「神人あいよかけよの生活運動」の実践から生まれてくるものであるとの思いを強くさせられる。

投稿日時:2014/11/01 17:45:35.221 GMT+9



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