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父の生涯がご用の指針【金光新聞】

父への不満と反発

 父は53年間、教会長としてご用をし、今から5年前の12月に他界しました。生前の父を知る誰もが、とても優しい人だったと懐かしんでくれます。
 私の記憶に残る父といえば、多くを語らず物静かで、祭典の準備を一人淡々と進める姿であったり、お結界で参拝者の話に聞き入り、ご神前に向かって、ひたすら祈念する姿でした。
 しかし、思春期の年頃の私には、神様に仕える父の役目が理解できず、父の優しさや物静かさはむしろ、弱々しさと映っていました。また、一方的に話す参拝者の言葉に耳を傾け続け、祈念するしか助ける手立てを持たないように見え、ふがいなく思えました。
 そんな父への不満と反発から、私は成人するころには、積極的に社会をただしていくような活動へと傾倒していきました。

 そこは、金光教とは懸け離れた世界でした。母はそんな私の先行きをとても心配し、父に何度となく、私の生き方への不安を訴えたそうです。
 すると父はそのたびに、「いや、分からんよ」としか返事をしなかったというのです。このことは父が亡くなった後、母から初めて聞きました。
 このことを聞いて、私は父の信念を垣間見た思いになりました。たとえ、一見無謀に見える選択であっても、そこにどのような神様のお導きがあるか、人間では分からない。難儀と思えることでも、どんなおかげとなっていくか分からない。神様のお導きを信じて、ご祈念するほかに何があろうか、という信念を、そこに感じたのです。
 私は30代の後半となるころ、精神的にも生活の面でも立ち行かなくなりました。そして、いろいろな曲折を経て、父のご用する教会を継ぐ道にたどり着いたのです。そうして、私が金光教教師となったのは、父が他界する半年前でした。

雷鳴のごとく

 父が亡くなる前日、私は12月にしては暖かい日差しの中、久しぶりに父の布団を干しました。布団に触れると幾分ひんやりと湿り気を感じ、このような布団に父を寝かせていて申し訳なく思いました。
 このころの父は、体力もずいぶんと落ちていましたが、この日は朝からしゃんとして、「今日は越年祭の祭詞を書き上げる」と言って、書き始めました。
 この日、父が一日かけて書き上げた生涯最後の祭詞は、次へと託す遺言でもあったのだと思います。小筆で、思いの込もった祈りがつづられていました。
 よく干された布団で一夜を過ごした父は、翌朝、いつものように起き、6時のご祈念までのわずかな間に、心不全で生涯を全うしました。

 告別式が終わるまでは晴天が続きましたが、その翌日は朝からせきを切ったように雨が降り注ぎました。時には雷が教会の頭上で激しい音を鳴り響かせました。それは、教会長だった父がもう、この世にはいないことを告げるかのようで、一体これからどうなるのかと、恐ろしくさえ感じられました。
 同時に、父の祈りの大きさを思いました。そして、かつて弱々しく、ふがいなく思えていた父が、そうではなかったことを悟りました。
 自らの最期をもって、ご用に生きる尊さ、信心して生きる確かなおかげを、雷鳴のごとくに、後に残る私の心に焼き付けてくれた父の生きざまは、今日、私の憧れであり、私のご用の指針となっています。
メディア 文字 信心真話 金光新聞 

投稿日時:2014/11/21 18:26:44.450 GMT+9



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