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子どもの参拝を喜ぶ心【金光新聞】

まるで〝魔法〟

 金光教には縁もゆかりも無かった私(47)の友人とその娘の夏ちゃん(6)が、教会の近くに引っ越してきました。それが縁で、今では朝10時のご祈念に参拝しています。夏ちゃんは「次はいつ行くの?」と、母親に聞くほど、教会に来ることを喜んでくれていて、私も夏ちゃん母子に会えるのがとても楽しみです。
 そんな夏ちゃんは、教会に来ると広いスペースのお広前に思わず、はしゃぎたくなるようでした。私はご祈念中、友人のそばに座って一緒に夏ちゃんの相手をしながら、騒がしくなり過ぎないように気を配っていました。
 そんなある日、私がご祈念の先唱役をすることになりました。夏ちゃんの横に座ることができないので、ご祈念中静かにしていてくれるか心配になりました。
 しかし、そんな私の心配をよそに、夏ちゃんは拝詞をみんなと一緒に唱え始めると、はきはきとした声で最後まで続けました。まるで〝魔法〟に掛かったかのように。

 さて、朝10時のご祈念に参拝する方の中に、いつも両手いっぱいのお菓子をお供えされるおじいさん(84)がいます。「子どもの参拝は、それだけで本当にありがたいことです」と、うれしそうに言い、教会にお参りする子どものためのご褒美をお供えしてくださるのです。
 その日、教会に来た夏ちゃんはお広前の戸を開けると、そのおじいさんの笑顔に迎えられました。〝魔法〟は、これだったのです。

子どもの参拝を喜ぶ

 〝魔法〟で思い出すのが、私が以前、航空会社で乗務員として働いていた時のことです。私は同僚と共に、子どもを乗客として迎える時、子どもの目を見ながら「お利口さんね」と、笑顔で褒めることを心掛けていました。すると不思議にその子は移動中、おとなしく過ごしてくれるのです。
 でも、よく考えてみると、その時の笑顔や褒め言葉は、乗務員としての立場や都合を優先したものでした。それは問題を発生させないための対処方法としての面が強かったと思います。
 しかし、教会でのおじいさんはそうではありません。お広前に子どもが居ることを喜び、子どもの存在そのものに手を合わせるようにお礼をします。もっと言えば、そのおじいさんには、子どもが生まれてきてくれたことにお礼を言い、今の様子を温かく見守り、そして、ここからの成長を願う心が感じられるのです。そうした心が、そのまま夏ちゃんに伝わり、見事に〝魔法〟が掛かったのでしょう。

 ところで、今日、公共の場で騒ぐ子どもに関して、世間の声はさまざまですが、私は対応をうんぬんする前に、まず目の前のその子のことを祈る心を大切にしたいと思います。そこから、その子も周りも、私自身も助かり立ち行くことになっていくのではないでしょうか。
 教会のお広前で他の参拝者の邪魔にならない在り方を、子どもに分かってもらうことは、とても大切です。また、そのことは公共の場でのマナーを身に付けることにも通じると思います。
 一方で、私はそのことばかりに目がいき、夏ちゃんが教会に来てくれることを純粋に喜べていなかったのではないかと気付かされました。子どもの参拝を喜ぶおじいさんの笑顔のように、私も教会にやってくる子どもたちを、何にも増してありがたく思う心で迎えたいと願っています。
メディア 文字 信心真話 金光新聞 

投稿日時:2015/01/10 17:58:00.878 GMT+9



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