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人材の育成―青壮年教師研修会開催に当たって―

金光教報 『天地』 2月号巻頭言

 今年も教団の活動方針の一つに、「結界取次の充実と助かりの実現」を掲げている。その具体的な方途の一つとして、本部で「青壮年教師研修会」を開催する。
 昨年、教務総長が全教区に出向し、「天地乃神の道と生神金光大神取次―知る(めざめ)、行じる(稽古)、現す(開く)」という講話をとおして、「生神金光大神取次とは何か」「教団、教会、そして私たち教師一人ひとりはどうあればよいか」という問題提起を行った。その内容を受けてのものであり、次代の教団を担う青壮年教師を対象に、時代社会がどのように変化しても変わらないお道の中心、「道の道たるところ」を求めていく姿勢と実践を、確認していきたいと願っている。
 具体的には、各教区から選抜された青壮年教師が霊地に集い、講話、発表、班別懇談、自主信行などをとおして、「どうあればお取次で神様のお働きがより現れてくるのか」「どのような信心に取り組めば、神様が喜ばれるあり方になるのか」を求め合う。この研修会は、今年二月と十一月の二回開催し、第一回研修会で各自の取り組む信行課題を持ち帰り、第二回では、教会などで実践し行じるなかで気づかされた内容を持ち寄り、さらに中身を深めていきたいと願っている。
 これまでのさまざまな研修会についての感想として、「研修会をとおして、多くのことを学ばされ気づかされ、ここから取り組ませてもらおうとの思いを強くするが、その思いを持続することが難しい」という声を聞かせてもらうことがある。人の助かりを願い、神様のみ心に添うありようを求めて参加し、刺激も受け、示唆も得て教会に帰るものの、日常のなかに身を置き、ご用に追われて日を重ねるうち、そうした刺激もやがて薄れてしまい、思いはあってもいつか元の生活に戻ってしまうということであろう。
 教祖様は、神様のお心を求め尋ねられるなかで、常に「此方といえども、間違えば、いつお暇が出るかわからぬ」との緊張感を持ったご姿勢であられた。歴代金光様もまた、そのような慎みと改まりの歩みを現し続けてくださり、今日に至っている。
 このように範をお示しくださっているのであるが、実際のご用の現場では、知らず知らずのうちに「自分は正しい」「自分は分かっている」との思いになり、慎みを忘れ、学ぶことや自らを省みることを忘れてしまう。また、起こりくる問題や課題に迫られて、神様のおかげのなかにあることを見失い、人間考えのみで物事を判断したり、神様のおかげにならないようなあり方になってしまうこともある。
 先師たちもまた、道を求めて歩み続けるモチベーションを維持していくことの難しさを実感され、日々、思いを新たにされながら行じていかれた。
 ある先師は、水を浴び、「人間はこういうことをさせてもらわぬと欲が出、我の心が起こるから、あまり楽をしてはもったいない」と語られ、「楽をしない」というのが日頃からの心構えであったという。本部参拝でも、「汽車のない頃は、ぞうり二、三足を用意して歩いて参った。少しでも近道をと思って農家の門先を通ると、『金神参りが門先を通るので、門がちびる』と言われた。この頃は汽車ができ、じっとしていても連れて行ってもらえる。ありがたいことだ。このうえ、腰をかけて楽をして参ってはもったいない。腰かけては気が済まん。立って、せめてもの修行をさせてもらおう」と、実践された。
 また、ある先師は、おかげを頂くとどうしても信心が緩み、そのうえに安座して思い上がることを戒めようとして、「おかげの横領の自覚がいる」と、自分に言い聞かせておられた。こうした話を聞くにつけ、自らを戒め、思いを新たにし、自らを奮い立たせて、日々のご用に邁進(まいしん)されていたであろう先師たちの姿がうかがえる。そこには、神様のご用に対する真剣さと実意丁寧を求めて止まない姿勢があり、それに触れるとおのずと襟を正される思いにならされる。
 そうした教祖様をはじめ歴代金光様、直信・先覚・先師たちの求道姿勢を手がかりとして、この研修会をとおして、ここから一歩前へと進みたい。参加者は限られるが、参加した一人から次の一人へと伝わり、実践的な取り組みの輪が広がることになればと、切に願うところである。
 また、この研修会時の講話や、新任教会長研修会、学院卒業五年・二十年の教師を対象とした教師研修会時の講話については、教師一般に公開し、「教師セミナー」に代えることにしており、一人でも多くが求め合える場とさせていただきたいと願っている。

投稿日時:2015/02/03 10:30:00.590 GMT+9



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