最近、わが家は引っ越しをしました。その際、子どもたちが幼い時に遊んだおもちゃを整理していると、いろんな色が混じった1個のスーパーボールが出てきました。
他の人には、何の変てつも無いボールかもしれませんが、私には忘れられない思い出の品です。
そのボールは、中学生の次男(15)が幼稚園児のころ、縁日の露店で手に入れたものでした。捨てずにしまったまま、いつの間にか忘れられていたそのボールを手に、「これは、あの時の」と、懐かしさが込み上げてきました。
それは11年前のこと。親子で縁日に出掛けた折、次男は初めて目にする、色も大きさもとりどりのボールが水に浮かぶ「スーパーボールすくい」に興味津々で、露店の人だかりの中に座り込み、水槽の前から離れようとしませんでした。私が「やってみようか」と言うと、目を輝かせ、「うん」とうなずきました。
早速、次男は狙いを定めると、輪っか状に張られたすくい紙を手に、何度も目の前を流れていく多くのボールの中から、欲しいボールに気持ちを集中させて挑戦し、見事に1回で、すくい上げることができました。けれども、すくい紙は水浸しで破れてしまいました。
私は「500円も払ったのに、たった1個か」と思いましたが、次男は「やったあ!」と大喜びで、欲しかったそのボールを手にし、本当にうれしそうに眺めていました。
すると、露店のおじさんが「はい坊や、もう1個ね」と、別のボールを差し出してくれました。実は、すくえなくても必ず二つはもらえることになっていたのです。
ところが、次男は「ううん」と首を横に振ったのです。
おじさんは「何で?もう一つもらえるんだよ」と、さらに言いますが、次男は「もう要らない。これだけでいい」と答えました。そんなやりとりを繰り返して、子どもなりに事情をのみ込めたのか、もう一つもらってその場を後にしました。
それから次男は毎日、お気に入りのスーパーボールを握ったり、眺めたり、ポケットに入れたりと、宝物のように大事にしていました。
そうした当時のことを思い出しながら、「今の社会は豊かで物があふれているけれど、そのことが当たり前になっていて、かえって必要以上に欲を出し、物を手に入れようとする行為へと向かわせ、他人との争いや、物を粗末にするといった、神様が喜ばれないありようを生んではいないだろうか」と考えさせられたのです。
金光教の教祖様は、「食事をする時に、このくらいでよいと思う時が、天地の親神のご分霊が分限を定められる時である。それが体に合う量である。それを、もう一杯、また一杯と、我食い、我飲みして病気になる人もあるが、これは神へ対し無礼ではないか」と説いています。食事を例にし、何事も、これくらいでと思うところが、神様が定めたちょうど良いところだ、と教えてくださっているのです。
私は、あの時の次男の「もう要らない。これだけでいい」という言葉は、どこかこの教えと通じるところがあるように思えました。こうした在り方が、天地の恵みを大切にし、周りの人や物事とも、より良く向き合っていく上で、大事なのではないかと思います。
※このお話は実話をもとに執筆されたものですが、登場人物は仮名を原則としています。
(金光新聞「心に届く信心真話」2014年6月22日号掲載)