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互いが立ち行く道とは【金光新聞】

バスの中での出来事

 先日、所用で路線バスに乗った時の出来事です。突然、車内に携帯電話の呼び出し音が響き渡りました。
 持ち主は老齢の女性で、携帯電話の扱いに詳しくないのでしょう。何とか音を止めようとしていましたが、結局、通話せざるを得なくなったようでした。
 申し訳なさそうに身をかがめ、声を潜めながら、「今、バスの中だから話せないの…。また後で…」と懸命に言うものの、相手に状況がうまく伝わっていないようで、電話を切るに切れない様子でした。
 その時です。中年の男性客が、「いつまでもうるさいぞ。あんた、マナー違反だぞ!」と言ったのでした。
 その女性は、突然の怒声と後ろめたさに恐れおののいて、ただ謝るばかりでした。その男性は畳み掛けるように、「今度やったら、運転手さん、その人を降ろしてください。ルールなんだから」とまで言い放ったのでした。車内には何とも言えない重苦しい雰囲気が漂いました。

 すると、一人の若い女性客が、「おじさん、あなたの言ってることは間違いだとは思わないけれど、おばあさんだってわざと電話してるんじゃないでしょ。これくらい許してあげられないの」と、勇敢にも言ってのけたのです。
 思わぬヒロインの登場に、車内の雰囲気は一変。分が悪いと見たのか、その男性客の「もういいっ!」と言う捨てぜりふで、その場は収まりましたが、その後、車内は妙な静けさに包まれ、何とも言えない居心地の悪さが残りました。
 その渦中で、私は恥ずかしながら何もできず、ざわつく心を抑えながら、その男性客に対して、「いい大人が周りの迷惑も考えずにみっともないなあ。この場が何とか早く収まればいいのに」と、祈りともつかない気持ちでいました。
 後日、信心仲間が集う場で、バスでの出来事について話したところ、集いに参加していた人から、その三者もそれぞれにいろんな事情や思いを抱えていたのではなかったのかと指摘され、あの時、私は信心している者としてどうあればよかったのかと、あらためて考えさせられました。私自身、場合によっては、あの三者のどの立場にもなり得るだろうと思えてきたのです。

妻の言葉を思い出し反省の念に

 その時、ふと思い出したことがありました。それは、保育士をしている私の妻がよく口にしていた、次のような話でした。
 「保育園で子ども同士のトラブルに立ち会った時、どちらが良くてどちらが悪いということを決めるよりも、まず、一人一人に『どうしたの』と尋ね、それぞれの言い分をじっくり聞いて理解してあげることが大事なの。そうすることで、お互いが納得して円満に収まるものよ」
 妻のこの言葉を思い起こしながら、私の心に「あの時、そういう心持ちになって行動できたらよかった」と、反省の念が湧き起こったのです。

 人と人とが関わるところでは、大なり小なりトラブルやいさかいはつきものです。そんな時、事の善しあしを言う前に、お互いは神様のいとし子同士という思いに立って、相手の事情や立場を察し、少しでも認め合い、許し合おうと努めることで、互いが立ち行く在り方が生まれてくるのではないでしょうか。
 神様は、私たちのそうした取り組みを望まれ、そこにお働きくださるものと信じています。

※このお話は実話をもとに執筆されたものですが、登場人物は仮名を原則としています


(金光新聞「心に届く信心真話」2014年12月28日号掲載)
メディア 文字 信心真話 金光新聞 

投稿日時:2016/05/03 08:00:00.000 GMT+9



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