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生神金光大神大祭をお迎えして ~金光大神祭りに思いをはせて~

金光教報 「天地」10月号 巻頭言

 今年も生神金光大神大祭をお仕えさせていただく季節となった。
 「生神金光大神大祭」は以前、教祖様の年祭をお仕えするという意味で「教祖大祭」という名称だったが、教祖百年祭の翌年からは「金光大神大祭」となり、さらに世界・人類の救済に向けて「生神金光大神」を差し向けられた天地金乃神様のご神願と、永世生き通しの生神金光大神取次をあらためて頂き直すことを願いとして、平成十年からは「生神金光大神大祭」として仕えられている。このように名称は変わって来ているが、もとは「金光大神祭り」に始まる。

 金光大神賛仰詞に「かねて仕えたまいてありし金光大神祭日のその日神上がりましぬ」とある。これはとてもドラマティックな、神秘的な出来事であり、そこには深いおぼしめしがあるとしか思えない。
 ところが、その「金光大神祭り」については、詳細はわかっていないのである。「神名書付」と呼ばれるものの中に「十日金光大権現」と記されたものがあるので、大権現の時代(元治元年~明治元年)から10日が祭り日として意識されていたと思われる。そして「金光大神御覚書」によると明治2年3月15日「当年より、先祖の祭り、毎年9月9日10日に、身内、親類、此方(このかた)へまいらせ」とあり、ご先祖様のお祭りも「金光大神祭り」の中身に加わっていった。続けて、「そのほか祝い、祭りは延引(中止)いたさせ」とあるので、それまでの慣習や世間のお祭りとは一線を画した祭りが教祖広前では意図されていった、と受け止めてよいかと思う。

 そして明治4年には「九月九日十日祭り、仰せつけられ、幟(のぼり)大小四本立て表へ提灯(ちょうちん)六張り、新座敷表、二張りともし、大ろうそくともし、おもちいたし」とお知らせがあり、外から見ても、何かしら普段と違うと思わせるような、にぎやかなものになっていったようである。しかし、神前撤去を経た明治7年には「九月九日、金光大神祭り、提灯一張りもともさず、例の客だけいたし」とあり、それ以降、金光大神祭りの内容を知ることはできない。しかしながら、教祖様はご晩年まで、この10日の金光大神祭りを大切にされていたことが、参ってくる人によって伝えられているので、形はともかく、大切にお仕えになっていたと思われる。
 それにしても、教祖様ご自身が、自ら「金光大神祭り」を仕えるとは、どういう内容だったのであろう。そして、その「金光大神祭り」の日が教祖様が人間としての現身(うつそみ)を隠され、永世生き通しの「生神金光大神」となられた日であるという、そのことの意味は何だったのだろう。

 ひとつには、先祖のお祭りも加えられているということから見ると、自分のいのちは先祖と深くつながっていることを確認し、自分のいのちの源、自分のはたらきの源を祭るという意味もあるのではないだろうか。
 もうひとつには、教祖様は「私のことを人が、神、神といいますが、おかしいではありませんか。私が、なんの、神であろうぞ。私は、何も知らぬ、土を掘る百姓であります。…私はおかげの受けはじめであります。あなた方もそのとおりにおかげが受けられます」と、言われている。まったく普通の人間であった教祖様が、おかげを受けて神になられたのである。だからこそ、参ってくる人に「あなた方もそのとおりにおかげが受けられます」「信心して神になれ」「信心して神になることを金光が教えてやる」と話しておられるところに大きな願いが感じられるのである。

 この「生神金光大神大祭」には、教祖様の年祭としてありがたくお仕えするという意味合いもある。永世生き通しの生神金光大神様のお徳にお礼を申すという意味合いもある。しかしながら、今一度、もとの「金光大神祭り」に思いをはせ、神様が教祖様に願われたように、さらには教祖様が参ってくる人に願われたように、私たちも「われながら喜んで、わが心を祭る」「信心して神になる」ということを切に願うという「生神金光大神大祭」をお迎えしたいと思うのである。

投稿日時:2016/10/01 09:00:00.000 GMT+9



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