title.jpg

HOME › めぐりと徳

めぐりと徳

金光教報 「天地」2月号 巻頭言

 立春を迎えるが、まだまだ厳しい寒さが続いている。「寒の良い日」という言葉がある。冬の寒さにも天地の恵みを感じ取り、お礼を申させていただこう、という願いがこめられている。とはいうものの、「寒いのはいやだなあ。早く春になればいいのに」と、つい不足が出がちなお互いである。
 近年中国で流行っている言葉がある。「空を飛ぶものは飛行機以外なんでも食い、足あるものは机以外すべて食う。これが人間。いのちあるものを礼も言わず、不足を言いながら無駄にする」欲望に駆り立てられている身勝手な人間の有り様を見事に言い当てている。

 教祖様は、「信心する人は、めぐりを取り払ってもらっているのであるが、信心せず、うかうかと暮らす人は、めぐりを積んでいるのである」とみ教えくださっている。人間をはじめ万物は、天地の大いなるいのちのなかで、等しく天地のお恵みを受け、生かされて生きている。にもかかわらず、「天地の間に氏子おっておかげを知らず」という神様のお言葉にあるように、そのことを当たり前のように思い、天地のお恵み、お働きに礼も言わず、むしろ不足ばかり言いながら生活をしている。これが「信心せず、うかうか暮らす」ということであろう。そんな生き方が「めぐり」を積み、難儀の元となる、とまで言われているのである。
 ある先師は、「私の最も恐れるのは、めぐりの実感の薄くなる事である」と語っておられる。信心させていただいていても「うかうか暮らす」ようでは、信心しないでめぐりを積むのと変わらない。それを自戒されてのことであろう。
 四代金光様は「世話になるすべてに礼をいふこころ」と、三代金光様は「ありがたい、ありがたいとばかり思う人には、ありがたいことばかりできてきます」と、金光四神様は「八寸のものを一尺にも喜ぶ者には、足りぬだけは神が足してやる」とみ教えくだされた。また、教祖様は「人間はみな天地金乃神から人体を受け、御み 霊たまを分けていただき、日々天地の調えてくださる食物をいただいて命をつないでいる」と教えられている。

 天地の間のおかげのなかで、神の氏子として命をいただき、神の心をいただき生かされて生きている。そのことに気づくことで、不平不足や我情我欲にとらわれた生活から、神恩に感謝し喜ぶ生活へと生き方が変わり、そこからおかげが生まれる道を教え諭してくださった。この生き方がめぐりを積まず、めぐりを取り払ってもらえる生き方であろう。
 そして、「先の世までも持ってゆかれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は、信心すればだれでも受けることができる。みてる(尽きる)ということがない」とも、み教えくださっている。信心は、めぐりの取り払いだけでなく、神徳を積むことができるとも仰せである。信心から生まれる喜びによって徳がいただけるというありがたい道にご神縁をいただいているお互いなのである。その徳を積む信心とはどのようなものであろうか。
 先師は、「あの者はなあ、よう参ってくる。日参もようする。祈念力も強い。しかしのう、人を助けたこともないし導いたこともないから、徳がないんじゃ。徳がついておらん」と、厳しく諭された。徳積みの信心というのは、人様のお役に立つということ、神様のお喜びくださる働きをさせていただくことなのである。
 また、ある先師は、「『徳積みの信心』とは、人様を大切に思い、人の難儀は自分の難儀と思い助けさせていただくこと、人様のお世話は心から喜んでさせていただくこと、人に物を差しあげるにも『良いほうをあげ、悪いほうを自分の家に置く』という心でなければ、真でないことになります。わが身を削ってでも、人様に足していく心になることです。そういう心でさせていただくことが、『徳積みの信心』である」と、教えられている。

 喜びの信心をすすめ、めぐりを取り払っていただき、めぐりを積まないだけでなく、神徳を積む信心のおかげをいただき、神も助かり氏子も立ち行く『神人の道』が、一人ひとりの生活に現されていくお役に立ってまいりたいものである。

投稿日時:2017/02/01 09:00:00.000 GMT+9



このページの先頭へ