title.jpg

HOME › 大天地、小天地

大天地、小天地

金光教報 「天地」4月号 巻頭言

 明治18年、「神道金光教会規約」に、「四月九日十日 教会大祭」と、祭典日が位置づけられた。当初は、教祖様に御取次を頂き、救い助けられた直信先覚方が、春の訪れとともに親神様に御礼を申し上げる祭典を行い、懇話会を開いて、布教の現状を話し合ったのが始まりで、それがいつしか信徒を伴って参拝するようになり、次第に参拝者が増え、やがて大祭をなしたという。
 草木が芽吹き、天地のいのちをより身近に感じるこの季節に、親神様への感謝を捧げたいという願いから、ご霊地に信奉者が集い、祭事を行うようになったのである。その後、秋に執り行われる教祖大祭に対して、春の大祭と言い習わされてきた。そして、平成10年の教規改正を経て、平成11年から「天地金乃神大祭」と名称を改め、今日に至っている。
 今年は、4月2日、6日、9日と、ご霊地において天地金乃神大祭が仕えられるが、例年、桜の開花から散り始めまでの期間と重なることが多い。その間、雨や風の強い日があると、最終日まで参拝者の目を楽しませてほしいと、身勝手な願いを持つこともある。本来、落花は結実に向かう成長過程であろうが、そこに儚さを感じるのは、見事なまでに一度に散り去る桜ならではのことだと思う。
 「天地に生命(いのち)ありて万(よろず)の物生かされ 天地に真理(まこと)ありて万の事整う」と神前拝詞でお唱えするが、桜を愛でるだけが天地のいのちを感じることではなかろう。
 私たちは、天地の間に、天地の働きによって生かされているお互いである。では、地震は、台風は、生かす働きと言えるのかどうなのかということが問題になるが、地震も台風も、それ自体は災害ではなく、天地の働きの一つである。
 教祖様は、「天地が生きているから、人間もみな生きていられるのである」と教えられている。天地には、生きているが故に止めようのない動きというものがある。人が食べなければ生きていけないように、また、食べたら排泄しなければならないように、天地には、地震もあれば噴火もあり、台風もあれば、日照りも大雨もあるのが道理であり、そこに住まわせていただくお互いは、その天地の道理を知って、道理に合う生き方をしなければならない。
 教祖様は、「天地のことをあれやこれやと言う人がありますが、人では天地のことはわかりませぬ。天地のことが人でわかれば、潮の満ち干がとまりましょう」(Ⅰ近藤9-1)。また、「天地のことは、人の眼(まなこ)をもて知りて知りがたきものぞ。恐るべし恐るべし」(Ⅲ神訓1-20)とも教えられている。
 「生々流転(せいせいるてん)」という言葉があるが、「天地流転」と申してもいいように、悠久の時の流れのなかで、天地は絶えず移り変わっているのであり、そういう天地の間に生かされて生きている私たちである。
 私たちは、この天地から離れたら、一時も生きてはいられない。例えば、福島第一原子力発電所の放射能が今でも大きな問題になっているが、宇宙は放射線だらけだそうである。宇宙ステーションの中にいても地上の150倍の被ばく量になり、さらに、船外活動で宇宙に出れば、何層にもなる宇宙服や生命維持装置が必要になるわけであるが、それでも船内の2~3倍の被ばく量だそうだ。私たちは、地球の大気によってそういう放射線や熱の変化から守られているわけである。地球環境に守られて生きているお互いであり、人間もまた、その天地の一部である。
 そして、私たちの命は、この天地の間に、約38億年前に生まれたと言われている「いのち」の歴史を受け継いでいる命であり、次の世代へとつながる命でもある。私たちの遺伝子には、38億年の「いのち」の歴史が刻み込まれており、天地とつながって生かされて生きているのである。
 教祖様は「大天地、小天地」と教えられている。また、現教主金光様が「神は人の中にあり、人は神の中にある」とおっしゃっているように、私たちは、大天地である神様の懐の中にあって生かされ、小天地であるわが身の中でお働きくださる神様を頂いて生きているのである。そういう自覚を持たせていただいたうえで、天地金乃神大祭をお迎えし、御礼の真を捧げたいものである。

投稿日時:2017/04/01 09:00:00.000 GMT+9



このページの先頭へ