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神心となって人を祈り助け導く

金光教報 「天地」6月号 巻頭言

 万葉の時代から続く街道沿いに、金光教の教会がある。そこは、西暦726年から732年までの間、万葉の歌人、山上憶良が筑前守に任ぜられ、この街道を行き来したようだ。その教会からすぐ先の地で、憶良が詠んだ歌がある。
 「瓜(うり)食(は)めば子ども思ほゆ 栗食(は)めばまして偲(しぬ)はゆ 何処(いづく)より来りしものそ 眼交(まなかひ)にもとな懸(かか)りて安眠(やすい)し寝(な)さぬ」。瓜を食べては、子どものことが思われてならない。食べさせてあげればさぞ喜ぶだろう。栗を食べては、ましてしのばれる。こんなにかわいい子どもはどこからやってきた賜物(たまもの)であろうか。その顔がまぶたに焼き付いて寝ることもできない、と詠んでいる。憶良には、子どもは神から頂いた賜物との思いもあったのか分からないが、憶良の中に子どものことが思われてならない、子どものことを祈らずにはいられないという神の心が確かに生まれている。

 現教主金光様は平成5年、金光学園を訪れていたオーストラリアからの研修生、留学生が本部参拝をした折、「神は人のなかにあり、人は神のなかにあるのです。人は、誕生とともに神性を与えられております。人間は、自分の心の中にいる神の存在に気がつかないといけないのです」と、み教えくださった。憶良は人の中にある神の存在に気付いていなかったかもしれないが、そこに気付くことが大切と、み教えくださっている。
 そして、人の中にある神をどう現すか、どう神がお働きくださる信心をさせていただくか、そこを求め、おかげを頂いてまいらねばならない。
 教祖様は、「広い世間には、鬼のような心を持っている者もないとは言えないが、人間であったら、気の毒な者を見たり難儀な者の話を聞けば、かわいそうになあ、何とかしてあげたらと思うものである。神の心は、このかわいいの一心である」とも「寒い日であったが、お参りの途中で気の毒なおじいさんに遭(あ)い、かわいそうに思って、着ていた物を脱いであげた。それからお参りすると、金光様が、『今日は結構なおかげを受けたなあ。不幸せな者を見て、真(しん)にかわいいという心からわが身を忘れて人を助ける、そのかわいいと思う心が神心である。その神心におかげがいただける。それが信心である』と仰せられた」とも教えられている。人の苦しみがわが苦しみとなり、助けたいと思う心こそが神の心であり、その神をわが内に人間は皆頂いているのである。

 ある先師は「一番よく神様が現れなさることができるのは人間であります。それで人間の所へ神様はよい具合に現れたいと思うておられるのでありましょうが、人間が迷いのために、欲に引っかかっておるから、どうも神様が現れなさることができない。神様は人間の中のほう、奥のほうで黙ってござる。ただここに一人、幼少からなかなかしっかりとした生活をしてきている者がある。それが教祖様であります。その人を見込んで、神様が頼まれたのです。『どうであろう。助けてもらえまいか。ここで一つ現れたいと思うが…』と言われて、教祖様にご相談なされたものと思われるのです。教祖様の御理解、『生神とはここに神が生まれるということである』と仰せられてありますが、たけのこか何かが生えるように、人間の中から神様が生まれ出る」と語っておられる。
 これは天地金乃神様が、教祖様だけに特別にお頼みになったことであろうか。あらゆる人が神の子であり、自らの内に神を頂いていると仰せである。神は人をとおして現れ、人を助けたいと願っておられる。金光様はそこに気付くことが大切とみ教えくださった。

 では、どうあれば神が生まれ、神がお働きくださるのであろうか。それには、御取次を願い 頂き 神のおかげにめざめ お礼と喜びの生活をすすめることにより、神人の土壌が豊かになり、そこに神がお生まれくださり、人を祈り 助け 導く道が開けていくのであろう。

投稿日時:2017/06/01 09:29:26.601 GMT+9



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