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息子が精一杯生きた証【金光新聞】

懸命に生きた息子

 今から49年前に私が4人目の子を出産した直後、分娩(ぶんべん)室には、緊迫した医師の声が響き渡りました。産声を上げず、息子の体が、見る見る硬直していったからです。懸命な処置で、命は取り留めて頂いたものの、病名不明の難病で「余命4カ月」と宣告されました。
 夫はすぐさま教会に参拝し、息子の命が助かるよう、またここからの家族の立ち行きを先生にお届けしてくれました。すると先生は「自分で立つことができ、健康な身体になるように」との願いを込めて、息子に「健(けん)」と名前を付けてくださいました。
 私自身は順調に回復し、健を残して退院しましたが、危篤状態になっては駆け付ける、ということがたびたびありました。健は、小さな体で命の危機を何度も乗り越えましたが、けなげな頑張りもむなしく、1年9カ月で短い生涯を閉じました。

 悲しみに浸る暇もなく、すぐに担当医師から献体の申し出がありました。私たちは、そうすることで医学の進歩のお役に立ち、将来助かる命があるのなら、と思って承諾しました。健とお別れする前に、せめて一度だけでも家の布団に寝かせてあげたいと思った私は、健を抱いて家に連れて帰り、つかの間ではありましたが、願いをかなえることができました。とはいえ、時間的な制約があり、教会の先生に遷霊の儀式だけを仕えて頂いて、またすぐに健を抱いて病院へ戻らなければなりませんでした。
 病院に着いた私たちは、一般患者は入ることのないであろう扉の向こうの部屋の前に案内され、指示されるままに健を医師に託しました。しばらくして部屋から出てきた医師の腕の中には、すでに健の姿はなく、小さな白い紙包みを手渡されました。その包みを開けると、中にはほんの少しの健の髪の毛が入っていました。家路に就く中で、さっきまでこの腕の中にいたのに、わずかな遺髪だけになってしまったと思うと、寂しさと悲しさが込み上げました。

同じ願いを持ってくださっていた

 それからというもの、健が病気になったのは、母親である私の妊娠中に原因があったのだ、という自責の念に苦しんできました。3人の子どもたちの世話など、日々の生活に追われて、時間とともに悲しみは少しずつ癒やされていきましたが、自責の念が消えることはありませんでした。
 月日は流れ、健が亡くなって15年目のある日のことです。教会の先生の外孫に、健が生きていれば同じ年のお孫さんがおられるということを知りました。そしてそのお名前が、「健」と書いて「たける」と読むのです。先生がお孫さんと同じ字で名付けて、同じ願いを持って祈ってくださっていたことがありがたく思え、冷たい私の心に温かい日が差したように感じ、救われた気がしたのです。このことをきっかけに、私は健の命の意味を次のように受け止められるようになりました。
 
 それは、誰もが神様から役目を頂いて生まれ、その役目はその人が生きた証しとして後の者につながるのだということです。難病を持ってこの世に生を受けた健の命は短いものでしたが、献体を通して、後の人たちの助けにつながったのかもしれません。精いっぱい生きてくれた健には、お礼の気持ちでいっぱいです。そして、健(たける)さんを見るたびに、健が、私たち家族を見守ってくれているように思えるのです。

※このお話は実話をもとに執筆されたものですが、登場人物は仮名を原則としています

(「心に届く信心真話」2017年9月17日号掲載)
メディア 文字 信心真話 金光新聞 

投稿日時:2018/11/08 10:05:09.111 GMT+9



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