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ジェンダー(性差)について考える 男と女、ではない時代に

 男と女の話を書いてみたい。と言っても、色っぽい話ではない。金光教におけるジェンダーについて、である。
 ジェンダーとは、身体的な性差ではなく、社会的・文化的な性差のことである。男女雇用機会均等法も成立して男女平等の社会を長らく謳うたいながら、最近も大学の医学部入試で、明らかに女子受験生に不利になっていたことが表面化した。相変わらずの男性中心社会であることが露呈(ろてい)した感がする。
 宗教界には女性差別がないか、というとそうでもない。仏典では女性は修行しても助からないという「女人五障(にょにんごしょう)」や、男性に生まれ変わって成仏できる「変成男子(へんじょうなんし)」という思想があり、見直しの声が上がっているという。それに比べれば、本教は、あの封建的な男尊女卑の時代に、しかも教祖が男性であるにもかかわらず、女性を尊重したみ教えがかなり多い。そうではあるが、その時代の価値観での解釈や表現もあり、今となっては見直しが必要なものもある。
 私が金光教のジェンダーを問題にしたのは、ある教会の女性から話を聞いたことに始まる。その女性が初めて大祭にお参りし、祭典後のお話を聞こうと思ったら、「奥でお手伝いをしてください」と言われたというのである。お直なお会らいの準備であろう。「なぜ、女性はお話を聞いてはいけないんですか?」と問われた。かなり前の話だが、この女性の訴えは強烈に心に響いた。もちろん、女性たちは大切な御用として、お直会の準備をするのであって、「お話を聞いてはいけない」ということではない。しかし、そこには家事は女性の仕事という世間の論理が持ち込まれていたのであろう。
 こんなこともあった。私が青年教師の頃のこと、全国の青年教師が集まる会合で、一人の青年が「僕より若い教師が生まれて、賛者を卒業でき、ようやく赤単が着られるようになった」と話した。そこで、私は愕然とした。ならば、女性たちは「いつまでも赤単が着られない」存在であるということになる。男女でお装束が違うということではなく、差別的要素を含んだものであったのかと、愕然としたのである。
 また、ある女性の先生からは、こんな相談を受けた。「私、立教神伝の『後家よりまし』っていうのが嫌なんです。飛ばして読んでもいいでしょうか」と言われた。そのくだりは、立教神伝が教祖様だけでなく、とせ様にも向けられていることが分かる大切な箇所である。教祖様に対して「あの時、死んだと思って欲を放して」と言われ、とせ様にも「あの時、夫は死んだと思って」と、申し渡されたのである。しかし、「○○よりまし」という表現は、○○を貶める表現にとられかねず、不快な思いをさせる要素があるように思う。当時の感覚では問題がなかったとしても、こうした表現の見直しもいるのではないだろうか。
 もう一つ、「天は父、地は母」というご理解である。これは、教祖様は天地の双方の働きの大切さを教えようとなさって、天地を父母に例えられたもので、もちろん、母なる大地というのは、世間でも使う表現であるから、「天は母、地は父」には成り難かったのであろう。しかし、問題はそこからの解釈で、「地はすべてを受け入れるもの」と、特に女性に、すべてを受け入れ、一切の下支えの働きの大切さを説いてきたのではないだろうか。 今や男と女に二分される時代ではない。すべての関係において、あいよかけよで頼み合いいたし、という在り方を社会に実現していくお道でありたい。世間の価値に取り込まれぬよう、教祖様の教えの真髄を捉え、今として、どのように解釈し、表現するかは、今を生きる私たちに託されている。
(浅野弓・布教部長)

投稿日時:2019/08/01 08:00:56.567 GMT+9



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