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秋季霊祭をお迎えして ― 御霊様あっての私―

 春秋の折り目に当たり、本部広前をはじめ、各地の広前で仕えられる霊祭は、今の私につながるいのちの流れをつなげてくださった霊神様(みたまのかみさま)にお礼を申し上げ、その立ち行きとともに、信心の授受継承の祈りを込めさせていただく祭典である。
 教祖様は、「御霊(みたま)の祭りは大切にせよ」、「木のもとへ肥料をやれば、枝振りまで栄える。先祖や親を大切にすれば繁盛させてくださる」とご理解された。
 このみ教えに関わって、福崎教会初代教会長・牛尾弘覧(ひろみ)師は、「親先祖は地中に張っている根であり、幹は現実に生きている自分自身であり、枝葉は子や孫たちである。花木の根を大切にするように、親先祖を大切にせよ。親先祖様の助かりこそ、幹である自分自身の助かり立ち行きであり、枝葉である子孫の繁盛に連なる」と、親や先祖の御霊様を大切にすることが、自分自身の助かりとなり、さらには子孫の繁栄につながっていくことを丁寧に教えられている。
 私事になるが、私が誕生する1年前に母は流産をした。もし、そうでなかったら、私は弟として生まれたのかもしれないが、むしろ、この世に生まれていなかったに違いない。悲しいことではあるが、流産によって御霊様になられたその方があって、私がこの世に生を受けることができた、と思っている。
 そのことを想うと、自分のいのちが、自分一人のものではない、自分の中にその方がおられて、自分が生きるということは、その御霊様と共に生きることである、と思わずにはいられない。
 もし、その方が現世に身体をもって生まれてきたなら、皆から誕生を祝福され、温かい親の懐に抱かれ、厚い愛情を注がれ、日々の成長を見守られて…と、自分がそうされてきたことを当てはめてみると、そうした体験なしに御霊様となられたその方は、私が現世で生きている姿を、どのような思いで見ておられるのであろうか。
 若い頃、学校を辞めようと考え、授業に出ず、学生運動に没頭したり、ずいぶん無茶なことをした時期に、何度か生死の境に至るような状況に置かれたことがあった。
 しかし、いつも大事に至らぬような働きが現れた。私はずっとその中に神様のお守りを感じていたが、そこに、神様だけでなく、私の中の、あの方の御霊様が働き、導いてくださっていたように思われる。
 「おいおい、そんなところで死んでもらっては困るよ。おまえには、私の分まで生きてもらわなくてはならないんだから、もっと自分のいのちを大切にしてくれよ」と。自分がこの世に生を受けるということは、本当に奇跡のようなもので、いろいろな人の人生が織りなす模様がちょっとでも違えば、この世に生まれていないお互いである。
 神様あっての、親あっての自分であるとともに、御霊様あっての自分ということに思いをめぐらせ、自分が生かされていることの喜びを御霊様と分かち合う。そんな御霊様との交流を、霊祭をお迎えする月に深めていきたいと思う。
 この月、本教における霊祭の意義を頂き直すとともに、めいめいに由縁ある御霊様との交流を深め、心を込めて、ありがたい霊祭を仕えさせていただきたいものである。
三浦義雄・総務部長

投稿日時:2019/09/02 13:30:46.395 GMT+9



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