title.jpg

HOME › 第6回 探していた宗教と出合えた【信心と理屈の間で】

第6回 探していた宗教と出合えた【信心と理屈の間で】

願望達成法の仕組みを知りたくて

イラスト・奥原しんこ
かんべむさし(SF作家)
 今回は、「願い」や「願望達成」について、書かせて頂く。これまでの人生で筆者は、強烈な願いを持ち、それを実現させた経験を、まずは3回持っている。「まずは」と書いたのは、信心にも金光教にも、まだ全く無縁だった時代のことだからである。
 最初の例は、高校2年の春、学習雑誌の記事で、東京の某高校に落語研究会があると知った時だった。中学時代からの上方落語ファンゆえ、その場で「落研」設立願望に取り付かれてしまい、以後、勉強そっちのけで設立計画に没頭した。その結果、秋の文化祭で、発表会を開けていたのだ。
 2例目は、並行して広告にも興味を持ちだしており、大学では広告研究会に所属していたため、将来は広告制作の仕事がしたいと、思い詰めてしまったこと。4年間、文字通り「寝ても覚めても」それを思い、結果として、それが実現することになっていた。
 3例目は、広告マン時代の後半期、雑誌の小説コンテストに応募し、それが選外佳作に選ばれたため、脱サラ願望が猛烈に高まったこと。広告の仕事における発想範囲の制約。策謀を好む陰険な上司への忌避感。コンテストに応募したのは、そのストレスを発散するためだったから、これもまた止めようのない願望になり、最後は衝動の暴発で踏み切っていたのだ。
 何にせよ、この3例とも、願いに頭を占領され、そのエネルギー量と持続度は、自分でも驚くほどだった。だから当方、金光教を知る以前から、「願いは実現する」ということを、実感として知っていた。生来の心配症もあって、同じ時代以降、願望達成・安心・自己実現の本を多読してきたが、それは先に書いた願望達成例の、仕組みを知りたいからでもあったのだ。
 で、個々の書籍名を紹介するスペースはないけれど、それら多種多様な本は、大きく分ければ、ビジネスマン向け系列、宗教関連系列、科学もしくは疑似科学系列と称することができる。そして多く読むにつれ、それらには共通項のあることが見えてきた。
(1)この「現実」以外に「何か」、あるいは「別の世界」が存在する。
(2)願望達成も安心も、「感謝」を基礎にすべきである。
(3)願望は、「すでに実現した」と思って、願っていくのが有効である。
 この三つであって、浅薄なハウツー物ではなく、考察を深めている書籍ほど、前期の3系列とも、大なり小なり、それらに触れている。物理や化学ではないから、自然科学の方法で証明された法則には成り得てないが、「立場の異なった内外の著者が、同じことを言っている」という事実は、真理真実を含んだ経験則であるからだろうとは、思うことができたのだ。
 ただし当方、信心を始めさせて頂くまでは、三つの共通項のうち、「感謝」については、その意味がよく分からなかった。ハウツー物式に捉えるなら、その必要性が分からなかったとも言える。世間一般には、「感謝しなさい」と言われると、反感や拒否感を示す人が少なくないが、筆者もその一人だったのだ。
 また、疑似科学系列の本の中には、願望達成の仕組みを、人間の脳の波動や波長で説明しているものもある。要点のみを書くなら、願いは、自身の波長と求める結果の波長とが一致した時かなうのであり、その著者いわくは、「それだけのことです」という。
 クールかつドライなシステム説だと言えそうで、だからそれに従えば、感謝の思い自体が好結果を呼ぶのではなく、感謝する時の脳の波長が、好結果を招くのだという理屈になる。一理あるように思い、それもあって、感謝の勧めに、もう一つ解せない思いを抱いていたのだ。
 ともあれ、上に書いてきたのは筆者の入信以前のことであり、同時に、願望達成法についてのみのことである。しかし、併存する個人的病理としての心配症については、理屈やハウツー方式で解消できるものではなかった。40代に入ってから公私ともにトラブルに見舞われだして後は、「苦しい時の神頼み」そのままに、宗教へ、金光教へと接近しだしたのである。
 従って、入信に至る道筋を概観すれば、「願いは実現する」ということを経験し、その仕組みを知りたいと思って関連書籍も多読してきた人間が、それらを全て含みつつ、同時に心配症も改善してもらえそうな、そして教えが温和寛容で自分との相性も良さそうな、そんな宗教を、好運にも「与えて頂けた」のだという経緯になる。
 これは真にありがたいことで、その点については、本心で感謝をしている。そして、人生の諸事に対する感謝に関しても、「よく分からせて頂きました」とは、まだ断言できないが、「なるほどなあ」と、分かるような気にはなってきつつある。だから、先に書いた波長システム説も、「という仕組みを成り立たせている何か」を考えれば、「考察の深度が、まだ浅いのでは?」と、思うようになってきているのだ。
 ところで、冒頭に書いた「願いに取り付かれ、寝ても覚めてもそのことを考えている」という高揚状態は、作家になって以降、長編執筆時などに、いくらでも経験してきた。だから、そのエネルギー量と持続度を信心にも適用できれば、どんな願望でも達成できるのではないかと思うのだが、なぜかそうは進まない。
 執筆時のそれは実は別の状態なのか、それとも何か間違っているため、願いをかなえてもらえないのか。それが筆者の、目下の検討事項なのである。

「金光新聞」2019年6月23日号掲載

投稿日時:2020/07/20 10:01:17.384 GMT+9



関連記事
このページの先頭へ