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広島の地から平和祈る【金光新聞】

早く行け

 昭和20年8月6日午前8時15分。一発の原子爆弾が地上に落とされました。瞬く間にきのこ雲が湧き上がり、黒い雨を降らせ、大地は荒れ狂う地獄絵巻と化しました。
 私の祖父(当時30)は、爆心地からほど近い教会で教会長のご用を頂いていました。祖父は、軍務で召集されている時に被爆しましたが、軽傷だったため、その後、ただちに救助活動に当たりました。
 ところが、救助活動が一区切りついて教会に帰ると、会堂は全焼しており、当時、留守を守っておられた先代の奥さま先生が、お広前があった場所でご祈念姿のまま亡くなられているのを見つけたそうです。
 祖父はお弔いを済ますと、その奥さま先生のご遺骨と共に、避難していた妻と1歳の娘を連れて、実家に帰りました。すると、実家の教会でご用していた祖父の祖母は、こう諭しました。「1人の信者さんでも生き残っておるであろう。その氏子のためにも、願い礼場所である広前はいっときも早く復興をさせて頂かねばならん。また、あれだけたくさんのみたま様ができたのだから、みたま祭を放っておくことはできまいが。早く行け」

 祖父は、「行けと言われても、草木も75年間は生息できないであろうと言われる原爆荒野へ帰って、私自身、やっていく何一つも持ち合わせていない。どう考えてみても、財産もない、力もない信心もない者に、手も足も出ない」という思いがあり、戻ることに迷いもありました。とはいえ、祖母の言葉に神様のおぼしめしを感じるものもあり、「物がなくとも、力がなくとも、させて頂こう」と決心しました。
 身一つで戻った祖父は、その夜、教会の焼け跡に寝ころびました。夜空を眺め、きらめく星を仰ぎ見ているうちに、「天地は生きている。われも共に生きん」と、心に生きる力を頂きました。
 以来、祖父は「神様と共にあるんだ。神様も私と共に苦しんでくださっている」との思いに支えられ、一歩一歩、教会の復興に取り組みました。

平和への祈りを込めて

 それから10年ほどたった頃のこと。広島で金光教の青年大会が行われたのですが、予定していた会場が急に使用できなくなったそうです。代表の方が困っていたので、祖父は「お役に立つことでしたら」と、自分がご用している教会を会場として提供しました。代表の方は、粗末なバラック建ての教会を見て、「こんな所では…」と、一瞬ためらったのですが、祖父がにこにこして出席者を迎える姿を見て、「これが先生のご信心なのか!」と感動したそうです。
 祖父は、人類史上、戦いで亡くなった全ての人のために慰霊の祈りをささげ、悲劇を二度と繰り返さない世の中にしたいと願い続けました。それは、「天地の間に住む人間は神の氏子」と仰せになる親神様の悲願達成につながる祈りです。
 その祈りは、74年がたった今も、この広島の地に深く根差しています。その祈りを身に受けて、私は今日も祖父の魂が込められたお広前で、祈りを込めています。

 教祖様が160年前に開かれた「世界・人類の助かりの道」、天地金乃神様も助かり人間も立ち行く「神人(かみひと)の道」を、令和を迎えて、願いを新たに、祈りを一つに歩ませて頂きたいと念願しています。
 8月6日、この天地の片隅から真の平和を祈りまつらん。

※このお話は実話をもとに執筆されたものですが、登場人物は仮名を原則としています

「心に届く信心真話」2019年8月4日号掲載
メディア 文字 金光新聞 信心真話 

投稿日時:2020/08/18 06:17:05.107 GMT+9



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