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信心のまなざしで見る新型コロナ問題①【金光新聞】

見えない神の氏子に思いはせ

「新型コロナにかかりたくも、うつしたくもないので、しばらくお参りを控えます」。緊急事態宣言直後の、ご信者さんからの電話でした。お参りでき、お取次を頂き、広前でご祈念ができることで、ご信者さんはこのお道の中に生きる安心を得、信心する者同士の一体感を覚えます。ところが、連日お参りがなく、「集まることがない教会ってどういうことなの」と、次第に思案するようになりました。
 そして、「はっ」としました。「はっきりと見えていますか」という自分への問い掛けでした。「広前に、今はお参りがかなってはいませんが、見えない神の氏子がいらっしゃる」、そして「その氏子に思いをはせる親神様がいらっしゃる」。大切にすべきことをいよいよ大切にしていますか、ということでした。
 これはただならぬことだと受け止め、私は毎朝のご祈念後に教会玄関から、「総氏子の皆さん」と語り掛けるようにしました。「おはようございます。ただいま、総氏子身上安全、世界真の平和達成、子孫繁盛家繁盛を、金光様にお願い致しました。お互いに、天地のみ恵みを礼(いや)び畏(かしこ)み、互いの命を尊び合い、天地の道理に沿う生き方でありますように、お祈り申し上げます。ご信心なさる方はいよいよご信心を進められ、ご信心を頂かれるべきお方は、どうぞご神縁をこうむられて、金光様のお広前にお引き寄せを頂かれますように。コロナ感染のただ中ですが、けが過ちのありませんよう、お互いにお役に立ち合いますように」と。そして、お結界の前に戻り、お取次を頂くのです。

 そうした中、行橋教会は、5月末が開教記念祭でした。ささやかでも心尽くしてと願っていましたが、参拝はおぼつかず、先生方の参列もお断りしました。その時、改めてどこに目を付けているのかと、思わせられるのです。案内はどうしようか、お供え物は、直会(なおらい)は。はて何を相手にしているのか、中心がずれているのではと考えさせられました。
 ご本部の天地金乃神大祭は、参拝自粛、遥拝(ようはい)の中、ただ神様にどう喜んで頂くか、ではなかったか。そう感じる時、「お願いしている中での記念祭を頂けばよろしい。神様のおぼしめしのあることに違いはない。まずありがたい心にならせて頂け」と心耳に響きました。そして、広前準備では普段より多めに椅子を並べました。「どなたがお参りになるかもしれません。いつでも迎えられるよう、その見知らぬ方の席、おかげの椅子を用意したい」との思いからです。「あなたのことは放ってはいません。あなたの居場所はここにありますよ」です。そして、「これで済んだ」と思わず、一年を通して日々記念の日として言祝(ことほい)でいこうという気持ちになりました。
 「コロナとの共存」が説かれますが、どういう事態でも、神様と人々が離れず、「共に在る」ことが重要です。そのために、世の中に神様の願いを届け、人々の喜びも悲しみも迎え入れる教会の肝心な本分を、こういう折にこそいよいよ確かめていきたいと、強く思わせられています。

井手 美知雄(福岡県行橋教会長)
「信心のまなざしで見る新型コロナ問題」金光新聞2020年8月16日号掲載

投稿日時:2020/08/26 15:03:47.135 GMT+9



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