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生神金光大神大祭を迎えて ここから先の神様のお導きを

金光教報 「天地」10月号 巻頭言

 いよいよ生神金光大神大祭をお迎えする。教祖様に始まる信心のご縁につながる私たちであることへの御礼と、神様と共に生きられた教祖様をお手本にして、生神金光大神取次のみ働きを受け現していくことを願いとする祭典である。
 各教会のお広前にあっては、新型コロナウイルス感染症の拡大防止のために、ご祭事や平素の活動など、あるべき形を試行錯誤で求めておられるところであろう。本部においても、万全を期して対策を講じているが、予断を許さぬ状況が続いており、このたびのご大祭は、各教会代表2人の参拝という制限のもとにお仕えさせていただく。
 平素ならば、一人でも多くの方に参拝していただきたいところであるが、控えよというのであるから、勝手の違いに苦慮されていることであろう。全教が本部広前を思い、参拝を心待ちにしているのに、制限しなければならない事態に、一日も早い「コロナ終息」を願わずにはいられない。
 岩﨑内局の発足に当たり、教務総長は「このたびの新型コロナウイルス感染症は、現代社会のゆがみを先鋭化する形で、私たちに生き方の問題を突き付けてきている」と述べた。そして、「内局発足にあたっての所願」(「金光教報 天地」9月号に掲載)では、「合理化や科学主義によって、人間が手に負えないものにさえ手を出して、思いどおりに制御しようとしてきたのが近代化の歩みであり、制御してきたつもりが逆に制御されてしまった」と、その行き詰まりを指摘した。
 現代社会において新型コロナウイルスは、「手に負えない」最たるものである。やがてワクチンが完成すれば、「未知のウイルスとの闘いに勝利した」ということになるだろうが、天地の働きはいつの時代も、人間の思いどおりになった例(ためし)がない。そのことを忘れて、さも制御できたかのように考えてしまうのは人間の傲慢さゆえである。
 また、信心を頂いている私たちも、いつしかそのような傲慢さを神様に向けてしまい、人知を超えたものを人知で受け止め、自分の範疇のみで理解しようとしてこなかっただろうか。そのことが新型コロナウイルスによって問われたとすれば、この事態は神様との関わり方を問い直す手掛かりだと受け止めるべきであろう。
 私どもは、感染が終息し、以前のような生活に戻りたい、かつてのような教会活動が進められたらと願う。しかし、その願いの中に、「思いどおり」という近代化の渦に巻き込まれている危うさが潜んではいないだろうか。
 世間では、「新型コロナウイルスを想定した新しい生活様式」が提唱されているが、私たち信心する者にとっての新しい生活とは、どのような生活なのだろうか。
 岩﨑内局は、この道の信心が進み行く方向性を「内局発足に当たっての所願」に込めた。それは、教祖様のご生涯を、神様との縦軸で結ばれていく「神人物語」として押さえ直し、それをお手本にして、一人ひとりが「神人物語」を編んでいただきたいという願いからである。教祖様が自分の思いをはるかに超えた神様に出会えたように、自分の物差しを放して、神様からの縦軸をしっかりと受け止めていく日々の稽古が大切になってくる。
 このたびの生神金光大神大祭は、一人ひとりが教祖様のご信心と、この願いを共有し、ここから先の神様のお導きを頂く、出発点にさせていただきたいと願っている。

投稿日時:2020/10/02 15:02:57.921 GMT+9



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