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相手を責めず包み込む【金光新聞】

「お風呂を見てきて」

 昨年のお正月のこと、夕飯のお雑煮の仕度をしていた私は、お風呂に水をためていたのに、タイマーをセットしていなかったことを思い出しました。こたつに入ってテレビを見ていた小学生の三女に、「お風呂を見てきて」と頼むと、娘は「分かった」と気持ちよく返事をし、すぐに風呂場に行ってくれました。そして戻ってきて「見てきたよ」と言って、再びテレビを見始めました。私はすっかり安心して、料理を作っていました。
 ところが、しばらくすると、「大変!お風呂が大洪水!」と叫ぶ長女の声が聞こえました。急いで風呂場に行くと、水が出しっ放しのままで、浴槽から水があふれ、浴室の床が水浸しになっていました。三女は、私の言葉通り、お風呂を見てきただけだったのです。

 「いったい何を見てきたの?」と、思わず娘を叱り付けそうになったのですが、とっさに「腹を立てながら叱っても後々のためにならない」と思い直し、三女を膝に抱きながら「お母さんの言い方が悪かったねえ。水を止めてきてと言えば良かったね」と言うことができました。この時、瞬時に気持ちを切り替えることができたのは、私も三女と同じような経験をしていたからです。
 今から25年ほど前、私はある教会の修行生となり、炊事や掃除などのご用をしながら信心の稽古をさせて頂くようになりました。
 ある日のこと、教会長先生から、コバルトブルーのとてもきれいなお酒の空瓶を手渡され、「ラベルを剝がしてきて」と頼まれました。私は台所に行き、水を掛けながら金たわしで勢いよくラベルを削り落としました。そして、ピカピカになった瓶を持って戻りました。ところが、先生はその瓶を見るなり、「ああっ」と言って、驚いた表情をされたのです。先生が持ってきてほしかったのは、空き瓶ではなく、ラベルの方でした。

わしの言い方が悪かったなあ

 後になって知ったのですが、先生は、日頃から、お酒やお菓子のラベルをスケッチブックに貼って大切に保管されていました。しかしそれは、珍しいラベルを収集することが目的だったわけではなく、大切な人からの頂き物のラベルを取っておられたのです。つまりは、贈ってくださった方の思いを、スケッチブックにとどめておられたわけです。私に頼んだ瓶も、かつての戦友から送られてきたお酒の瓶でした。
 私が先生に瓶を差し出した時、先生は一瞬驚いた表情をされたのですが、一言も叱ることなく、「よしよし、わしの言い方が悪かったなあ」とだけおっしゃいました。そして、先生は「この瓶はあなたにあげます」と言われ、私に下さいました。それ以来、私は自分への戒めとして、行き場のなくなったコバルトブルーの瓶を、修行生の間ずっと部屋に飾っていました。

 あれからずっと、受け取り違いをしないようにと日々願っている私ですが、伝え方や受け取り方の行き違いは、人間同士どうしてもあるものだと思わされます。その結果、失敗や間違いが起きたとしても、相手を責めるのではなく、一歩進んで広やかな大きな心で包み込んでくださった先生のとっさの一言に、私はこのお道の信心の奥深さの一端を見せて頂いたように思うのです。
 先生が示してくださった、信心する者としての姿勢が、時を経て今の私の中に立ち現れてくださり、ありがたい気持ちになったお正月でした。

※このお話は実話をもとに執筆されたものですが、登場人物は仮名を原則としています

「心に届く信心真話」2020年1月5日号掲載
メディア 文字 信心真話 金光新聞 

投稿日時:2020/12/30 06:06:09.517 GMT+9



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