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第12回 まだまだ俺は薄っぺらい!【信心と理屈の間で】

作家の 「勘」 で進める、 手探りの信心

イラスト・奥原しんこ
かんべむさし(SF作家)
 この連載、今回が最終回である。また今年は、ラジオ放送「金光教の時間」で、お話もさせてもらった。どちらに対しても、メールなどで感想を頂いたが、中には、「それは買いかぶりですよ!」と、声を上げたくなるものもあった。
 本人、書くものにせよ話すことにせよ、信心が本当に分かって、確信を基礎にやっているわけではない。「こうではないかな」とか、「どうやら、こういうことらしいなあ」とか、いわば作家の「勘」で進めているだけゆえ、その薄っぺらさや危うさは、自分でよく分かっているからである。
 そしてその思いは、先般読んだ『人類の起源、宗教の誕生』(山極寿一・小原克博。平凡社新書)という本で、一層強くなったので、そのことを書かせて頂く。著者の山極先生は、ゴリラなど霊長類の研究で著名な学者で、京都大学総長。小原先生は同志社大学神学部の教授である。また、書名は難しそうだが、お二人の対談で構成されているので、すらすらと読める。そして当方、サブタイトルが「ホモ・サピエンスの『信じる心』が生まれたとき」となっているため、SF作家として、まずそのことに期待を高めていた。
「ホモ・サピエンスは現在の人類だが、山極先生の長年にわたるアフリカ現地調査や研究によれば、ゴリラやチンパンジーも、宗教らしきものを持っていると分かったのだろうか。としたら、大発見だな」
 そう思い、わくわくしながら読み出したのだ。しかし残念ながら、それはこちらが勝手に作った「物語」であって、動物にも「信じる心」らしいと解釈できる反応はあるそうだが、主題はやはり、人類のそれについてだった。
 山極先生の話によれば、人類の祖先が信じる心を持ち始めたのは、アフリカの熱帯雨林で生活していた彼らが、そこを出てサバンナ(草原地帯)に居住地を移してからだろうという。なぜなら、それまでは小集団で暮らし、食べ物も各自が手近で採取できていた。
 しかしサバンナに移ってからは、猛獣の来襲に備えて子どもや妊婦を守らなければならず、食べ物も遠くまで出掛けて、集めてこなければならない。おのずと多人数の中に役割分担が生まれ、居住地で待っていた者たちは、集めてこられた食べ物を、自分が直接採取した物ではないのに、そのまま食べることになる。
 それはつまり、集めてきた者を信用して食べるという行為になるわけで、それが「信じる心」の始まりではないかというのだ。ただし当方が思うに、これは人が人を信じる心であって、神を信じる心ではない。そしてそれについての、山極先生の説はこうである。
「私は宗教の起源は、共存のための倫理、エシックスだと思います。それは人間だけに与えられたものではなくて、いうなればすべての動物が、すべての生物が持っているんですね。それが人間が持つ、サルから受け継いだ視覚優位の能力のなかで実体化していった。つまり、人間が独自につくり上げていった。それが宗教になったのではないかと思います」
 当方、素人でせんえつながら、この部分で思っていた。
「霊長類学者の認識では、こうなるのか。しかし宗教は人間がつくったとして、神はどうなのだ。それも人間がつくりあげたものだということになるのか。話の流れとしての使用かもしれないが、『人間だけに与えられたものではなく』と、与えられたという言葉が使われている。誰が与えたのかと考えれば、話は違ってくるはずだがなあ」
 と同時に、「という具合に考えるのが、自分における、信じる心なのか。その意味では、おれは神の存在を信じているわけだな」とも思っていたのだ。
 しかし何にせよ、対談は広がり、AI(人工知能)時代を迎えた現在、人類の在り方を根本的に再考察する必要があり、そのとき宗教は、大きな役割を果たすだろうという話も出てくる。全体として、非常に興味深い本だったのだ。
 そして、ここで冒頭に書いた「当方の薄っぺらさ」に戻るなら、この対談の背後には、お二人の長年の研究実績がある。二百二十余ページという薄めの新書本は、膨大な蓄積を土台にして成立したエッセンスであり、それに比べれば自分の書くもの、話すことなど、芝居や映画セットの「書き割り」だなと思った。
 表側から見れば、いかにもそれらしい光景も、裏から見ればベニヤ板1枚であり、それを角材で補強したり、重りを置いたりして、かろうじて倒れるのを防いでいる。本人、「危ない危ない」とひやひやしており、だから「それは買いかぶりですよ!」というのは、本心の声なのである。
 そのくせ、お二人の対談を読みながら、「霊長類学と神学、双方の解明と研究が先に進んだ時、科学が宗教を含んでしまうことになるのか、それとも宗教が科学を含むことになるのか、どっちだろう」などと考えたりしている。
 生身の信奉者として、最近、「お礼、おわび、お願い」に関して、「自分はお礼とおわびが少なくて、お願いばかりが多いようだな」と感じたりしている。本当はそのことを考え、改善していく方が大切だろうとは思うのだけれど、ご無礼ながら、理屈の方が面白くて、ついつい、そちらは忘れてしまうのだ。
 しかし、取って付けたような文言になるが、そんな者でも排除されない金光教の寛容さは、ありがたく思っております。以上、一年間のご愛読を感謝しつつ。

「金光新聞」2019年12月22日号掲載

投稿日時:2021/01/06 11:01:56.369 GMT+9



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