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「神人の道」があらわれる信心の稽古

金光教報 12月号 巻頭言

 随分前のことだが、依頼を受けた教話の講題に、「信心のトレーニング」という言葉を用いたところ、その女性教会長から、「うちにはそぐわないので、信心の稽古としてほしい」と言われた。そのとおりにしたのだが、「トレーニングの方が分かりやすいのでは?」と思っていた。しかし、その後、この2つには大きな違いがあることを知った。
 例えば、スポーツのトレーニングでは、タイムや記録に向かってプログラムが立てられ、その効果は結果に表れる。それに対して、稽古には明確な目標が示されることはなく、一体どうなるのか分からないばかりか、どこまでも終わりがない。ところが、続けるうちに、いつのまにかできるようになっている自分に気付く、というのが稽古だという。どうやら信心が育つには、稽古の方がふさわしいようだ。
 しかし当時の私は、数値目標や期限を自らに課して教会活動を次々と遂行することに懸命だった。振り返れば、ささやかな教会修行の経験においては、何かをしたことよりも、何をするのでもなくお広前に侍(はべ)らせていただいた時間こそが大切だったはずなのに、そのことは忘れてしまっていた。今でも、物事を効率的に進めたいという考えがよぎる時には、あの女性教会長の思いに立ってみる。そして、先生が長い年月をかけて積み重ね、育んでこられたお広前の空気を損ないかねなかったお粗末を恥じるのである。
 そもそも「効果を求める」という姿勢は、信心が育つには不似合いなのだろう。例えば名称に「道」が付いている芸の分野においては、内弟子に入って何年も雑用を続けるうちに、手ほどきを受けたわけでもないのに、師匠そっくりな技量が身に付いていたという話をよく聞く。そのように、いつの間にか知らぬ間に思いもよらない力を修得するのが「道」での育ち方なのだろう。
 信心も同じで、人間考えや世俗の物差しを放して、神様や師匠の仰せ通りに付いていき、先を楽しみに倦(う)むことなく続けていくうちに、気付いたら自分の思いをはるかに超えた結果が現れていたというのが、この道の稽古なのだろう。そのような修行や稽古は、トレーニングでもエクササイズでもプラクティスでもなく、ふさわしい訳語が見当たらないと聞く。ところが、早く効果的に結果を出したいという世俗の物差しを指向すれば、神様のお働きは現れにくく、神様が連れていってくださろうとする行き先とは懸け離れてしまう。
 今、私たちが改めて確かにしたいのは、この道の稽古である。明年の教祖様140年のお年柄は、信奉者一人ひとりが、教祖様、教主金光様をお手本にして、「神人の道」が現れてくる信心の稽古をしていくことをもってお迎えしたい。教会はもとより、教区、連合会にあっても、それぞれの場で、神様のみ思いやお差し向けを受け止める構えをつくる稽古をさせていただき、全教を挙げて、神様の大きなみ働きを頂く生き方になってまいりたい。


布教部長 石黒眞樹

メディア 文字 金光教報 巻頭言 

投稿日時:2022/12/01 17:53:22.183 GMT+9



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