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「ありがたく頂く」

金光教報 2月号 巻頭言

 私の母は子供の頃、教会で御用を頂く両親から「食べる」と言うたびに「『頂く』と言いなさい」と言われ、そのことが身に付くまで何度も何度も直されたといいます。そのことを母は、「両親は言葉遣いというよりも、神様のお恵みにお礼を申す生き方を教えてくれようとしていたのだと、大人になってようやくその真意に気付かされた」と語っていました。このような体験は、おそらく教師家庭をはじめ、多くの信奉者家庭の日常の中にあったかと思います。
 そうして伝えられてきた、天地のお恵みをありがたく頂くという生き方が、豊かに思える私たちの食生活の中で、今どうなっているのかと感じることがあります。
 現代社会の食生活は、この食物がどのようにして私にもたらされてきたかが見えにくくなっています。スーパーに並ぶ品物には、産地や生産者は記してあるものの、その品物がどのようにしてできたのかまでは記されていません。そのためか、そこに並ぶまでにどれだけの人たちの労力があったのかまでにはなかなか思いは及びませんし、ましてや神様のお働きがいかに加わっているか、いやその働きなくして何も生まれない、との思いを抱くことは難しくなっています。
 教祖様は、ご自身の農業体験をとおして、天地のお恵みを実感されていたと思います。土地を耕し、種をまき、水をやるなど、人間としてでき得る限りの細心の努力や工夫をするなどの営みをさせていただく一方で、日の光や風や雨、温度などさまざまな天地の働きが加わって、おのずと芽が出て、育っていき、日を重ねて作物ができ収穫する。その人間の力のみではなし得ない天地の絶え間ないお働きの尊さを常に感じておられたことでしょう。
 そして、収穫された作物などを召し上がられながら、それが自らの血となり肉となり骨となるなど、いのちを支えていくものに変わっていくことを思われては、その働きをなしくださる神様のみ思いにお礼を申されているお姿が浮かびます。
 そうしたみ思いの一端が、「食物はみな、人の命のために天地乃神の造り与えたまうものぞ」「何を飲むにも食べるにもありがたくいただく心を忘れなよ」とのみ教えとなり、それを「本当にそうだ」と実感した直信先覚先師たちはまた、これを食事のたびに唱えさせていただき、そのみ心を頂いていきたいと願われたのではないかと思います。
 そのようにして、語り伝えられてきたみ教えではないかと思い浮かべる時に、今あらためて天地の恵みを頂く私たちの心の向きがどうなっているのか、問われているように感じています。

総務部長 山本正三

メディア 文字 金光教報 巻頭言 

投稿日時:2023/02/01 09:08:14.131 GMT+9



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