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捧げて満ちるもの

金光教報 3月号 巻頭言

 アメリカの作家O・ヘンリーに「賢者の贈り物」という小説があります。都会で仲良くつつましく暮らす若夫婦の物語で、二人は働き者ですが生活は楽でありません。この夫婦に宝物があります。夫の金の懐中時計と妻の見事な金髪です。
 クリスマス・イブの日、妻は金の時計に似合うプラチナの鎖を贈りたいのに、お金が足りず、でも諦めきれず、自分の髪の毛を売ります。帰ってきた夫は妻を見て驚きます。その手には、妻の髪に似合う宝石付きの櫛くしがありました。夫も自慢の時計を質に入れて買ってきたのです。鎖を贈っても時計がなく、櫛を贈っても髪がない。何ともちぐはぐに見えますが、小説の最後で作者は、「彼らこそ賢者である」と言います。愚かしいように見えて、実は本当に大切なことが分かっているということです。しかし、互いのために自分の宝物を手放そうと思えたことは、賢いというより、むしろ尊いことなのかもしれません。この小説に限らず、親子や夫婦、大切な人の喜ぶ顔を見たいと思い、自分のことは後回しでよい、と思えることもあります。そのように思える相手がいることは幸せなことであり、そのご縁は神様からの賜りものというしかありません。
 しかしさらに、名前も顔も知らない誰かのために贈る、尽くすということもあります。総氏子の助かりのためのご祈念、御取次は、教祖様から歴代金光様に受け継がれてきました。それは一生の多くを捧ささげるほどの、この世界への大いなる贈り物です。
 ただし、人や世界の方にばかり、心が向いているのではないでしょう。人と人との間の共感共苦は大切ですが、神様を思うからこそ催されるものがあるのだと思います。教祖様の場合は、命の危ういところを神様に助けられました。神様に助けられた命だから、神様のために使っていただく。自分のものを自分に抱え込まず、開け放していくことができる。それが義理や負い目からではなく、できる。
 神様からの、量りようのないみ思いと賜り通しのご恩を感じてこそ、湧き出てくる捧げものなのでしょう。そうして催されてくるものが、人へも振り向けられるのだと思います。
 与えることで得られるものがあり、捧げることで満たされるものがある。そういう人間考えを超えた道があり、それは先人たちが歩まれた道であり、ご縁を頂く私たちも、その道を踏ませていただきたいと思います。

教務理事 竹部弘

メディア 文字 金光教報 巻頭言 

投稿日時:2023/03/01 17:10:44.024 GMT+9



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