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教会に救われたご恩を忘れない【金光新聞】

行く当てない一家に

 「月命日だけはね、たとえやりが降ってもお参りしたいのよ」
 晩年、母がそう言って、90歳を超えて足元もおぼつかない中、「フーフー」と息を吐き、一休み一休みしながら金光教の教会へお参りしていた姿を、私(82)は忘れることができません。
 母は終戦の年、戦争で夫を亡くしました。当時、私は4歳で、姉2人と1歳の弟がいました。母は途方に暮れる中、知人に勧められてお参りを始めたばかりの教会を訪ねました。女性の教会長先生は、事情を聞くなり、私たち家族を教会の一室に迎え入れ、住まわせてくださいました。
 この時の先生の思いに、母は本当に救われたと言います。お礼の気持ちから、高齢で独身だった先生の身の回りのお世話を始め、夜は家計のために内職をしました。夜中に目が覚めると、薄明かりの下で、ポリポリと音を立てて豆の殻を割っていた母の姿が思い出されます。母は先生から「どんな時でも、何があっても、神様は必ず良いようにしてくださる」と教えてもらい、その言葉を信じて、大変な時も、今生きていることへの喜びを感じていくようになりました。
 そんな母の力になりたいと思い、中学校を卒業すると、姉2人と弟は住み込みの仕事に就き、私は教会から通える所で働き始めました。やがて、教会に新たに若い先生が来られたのを機に、私は母を連れて教会の近所に引っ越しました。

母の喜ぶ顔が見たい

 その後も、母は変わらない思いで、昼は教会で先生のお世話を続け、夜は内職をしました。毎日懸命に働く母を見て、私は「母をゆっくりさせてあげたい。母の喜ぶ顔が見たい」と神様にお願いするようになりました。
 ある日、私は会社を経営している信者さんから「うちで働かないか」と誘われて転職しました。以前より収入が増え、ありがたい気持ちで働かせてもらっていると、その会社が町の発展に貢献したという理由で、町から表彰を受けることになり、思いがけず、私が社員を代表して、謝辞を読むことになったのです。
 当日、母はその場にいませんでしたが、教会へのお参りの途中で、知人から「息子さん、大勢の前で表彰されて、親孝行ですね」と声を掛けられたそうで、心から喜んでいました。
 30歳の時には、教会の近くに新築の建て売りを格安で購入するおかげを頂き、広く新しい家で、母に過ごしてもらえるようになりました。親孝行も、神様のおかげを頂いてさせてもらえるのだと、分からせて頂きました。

思い受け継ぎお供え

 母はいつも「昔、あなたたちを連れてどうしようかと途方に暮れていた時、先生に声を掛けて頂き、ここまで来させてもらえた。このご恩を忘れたら、人間じゃない」と話していました。その言葉の通り、母は先生が亡くなられるまで、お世話を続け、月命日には、先生の好物だったうなぎを教会のご霊前にお供えするようになりました。そして24年前、母が94歳で亡くなってからは、その思いを受け継いで、私もうなぎのお供えを続けさせて頂いています。
 どんな時も今の自分がある元と恩を忘れず、生きる喜びを身をもって教えてくれた母。そんな母へ親孝行させてもらいたいとの私の願いを、神様はお受け取りくださり、ここまでおかげを授けてくださいました。これからも母の思いを受け継ぎ、一緒に朝参りをしていた日々を思い出しながら、お礼のお参りを続けさせて頂きます

※このお話は実話をもとに執筆されたものですが、登場人物は仮名を原則としています。

「心に届く信心真話」2022年3月23日号掲載

メディア 文字 金光新聞 信心真話 

投稿日時:2023/05/04 10:00:00.113 GMT+9



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