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【巻頭言】お広前のお働きに目を向けて

金光教報 12月号 巻頭言

 教祖様は、「向こうあけ放し」とおっしゃっている。神様の世界は始めもなければ終わりもなく、遠い近いの隔てもない。お広前での御用は、そのような「限りなさ」を体得させてくださる。神様は私たちに、お広前という人間の考えを超えるお働きが現れてくる場をご用意くださったのだ。
 私の祖父は、50年も参拝が途絶えていたご信者が、恐る恐る教会の玄関を開けた時、即座にその方の名を呼び、迎え入れた。それほどの時の隔たりを超え得たのは、祖父の記憶力ではなく、日々の祈りが繰り返されるお広前のお働きだ。また義祖父は、ご祈念中に突然ガバッと何かを抱きかかえるしぐさをした。その同時刻に、仕事中のご信者が足場から落ちたが、けが一つなかったという。これは義祖父の祈りというよりも、お広前のお働きによって空間を超えてご信者の身に起こる出来事を見せていただけたのだろう。
 きっとどこのお広前でも、日常の御用の中で何かしら似通ったことを経験しているのではないだろうか。以前は、こうした先人のまねはとてもできないと思っていたが、お広前のお働きに目を向け、神様のみ思いやお計らいを受け止めようと努めていると、何だか近づけるように思えてくる。お広前にすでにあるお働きを頼りにしていけばよいのだ。
 ところで、教祖直信の徳永健次師のお広前では、「火事が起こると、町の半鐘より先に教会の太鼓が鳴って知らせた」という。お広前での祈りが、世の人々の生活や出来事に直結して、その救いに関わっていることに驚かされる。健次師の孫である篤孝師は、「火事がどこで起こっているのか土手に上がっても分からなかった自分と、一番に太鼓を打った祖父との違いは、神に仕える身としてどういう姿勢で生きているかという決定的なところでの違いだ」と述べ、「常平生の構え」を問題にしておられる。まさに今私たちが求めている「構え」に通じることだ。私は、改めて神様との縦軸を強くして、人知を超えるお働きが社会の難儀の中に現れるようなお役に立ちたいと思った。
 教会が社会に開いていこうとするときにはさまざまな方法があるだろうが、お広前はすでに神様が開いてくださっている。それを「閉じた場所」だと思い違いをしていたら、神様の本来のお力が発揮されるはずがない。だから、開け放された向こう側から時空を超えて私にもたらされてくる全てを「お差し向け」と受け止める修行と稽古に励むほかはない。

布教部長 石黒 眞樹

メディア 文字 金光教報 巻頭言 

投稿日時:2023/12/01 19:33:30.878 GMT+9



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