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【巻頭言】何でも受ける

金光教報 9月号 巻頭言

 以前、手続き教会の先生が、お母様の葬儀に当たって、「母はいつも、『何でも信心で受けなあかんよ』と私をたしなめてくれました」とあいさつされました。その言葉は何となく懐かしく、それでいて新鮮で、「私も大切にしたい」と直感的に思ったのでした。
 それから程なくして、私は内局の一員として本部に赴くことになり、「神人物語」を編むとの教団の願いに全教の皆さまと取り組むことになったのですが、あの時の直感は、だんだんに、「これは、『神人物語』を編むことだ」という確信へと変わっていったのでした。
 私も教会に生まれ育ちましたが、振り返ると私も母の言葉によって、いつも軌道修正してもらってきたように思います。若いときには、世間的な価値観を持ち込んで信心に対して理不尽さを覚えたり、境遇を不足に思ったりすることがしばしばありましたが、母は常に神様の御用を優先するように迫りました。表現はいささか脅迫的でしたが、信心せねば立ちゆかない身なのだという「いのち」が基づくところを確かにしてくれました。
 こういったことは、信奉者の家庭でも同じではないでしょうか。口酸っぱく言われ続けた言葉によって、自らの立ちどころを確かにしたり、神様を見失わずに済んだという経験が誰にもあると思うのです。
 さて、冒頭の言葉の「何でも受ける」という姿勢は、今、教団で願われている「お差し向けを受けとめる稽古」に通じます。よいことも都合の悪いことも全て神様が差し向けてくださったことだと受ける「構え」をつくる稽古です。そして、「信心で受ける」というのは、起きてきた出来事や困難に「人間の物差し」を当て、世間の価値観に翻ほんろ弄うされて苦しむのではなく、「神様の物差し」で受け止めることを促しています。神様がどう思っておられるか分からぬお互いですが、だからこそ神様と対話しつつ、神様を主語にして、神様の側から物事を見ていこうとする稽古が要るのです。この言葉は、「横軸にとらわれているよ。神様と縦軸でしっかりつながりなさいよ。神様のみ思いを分からせていただいて助かるのですよ」と切なる思いで呼びかけています。まさに、「神人物語」ではないでしょうか。
 かつては信心する者の日常は、そうした神様との関係を整え、基づくべきところに立ち返らせてくれる言葉や働きで溢れていたと思うのですが、今はどうかと自問すると、ずいぶんあやしいようです。だから、今こそ「神人物語」を編むことで生まれてくる言葉や働きをもって、わが身、わが一家、わがお広前に「神人の道」があらわれてくるよう、稽古をさせていただかねばならないと思うのです。
布教部長 石黒眞樹

メディア 文字 金光教報 巻頭言 

投稿日時:2023/09/01 19:40:47.787 GMT+9



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