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祈りの結晶「天地書附」頂く 【金光新聞】

迎える心、届ける心 ─教会の役割を考える

 私が教会のご用に当たり始めたのは、教会長である母が病に倒れた四半世紀前のこと。当時すでに、教会周辺はドーナツ化現象が進み、信徒も郊外や都市部に移り住んで、この先どうなるのかと、心に揺らぎがなかったとは言えない。そんな気持ちに対し、「教会は街の風景ではない。神様の祈りが教会です。教祖様の広前を忘れてはいけない」と、母から叱咤(しった)された。
 教祖広前の様子(最晩年)について、「ご修行の場は、6畳一間で、…3枚の破れ畳と荒むしろ3枚が敷かれているだけだった」と、伝えられている。教祖様はそこに難儀な人を迎え、神の心を人に届けられたのである。本当にありがたく畏れ多い限りである。
 そうした中、遅々としつつも私が心掛けたのは、人を迎える心を高めることだった。
 ある大祭の準備の折、一人の信徒が広前に椅子を並べ始めると、「ああ、そんなに椅子は出さなくていい」と、別の信徒が言った。大祭後、「神様の思いは一人でも助かること。まだ見ぬその人の席があることでは」と、皆で話し合った。迎える心が教会にあるのかどうか、席のない寂しさを用意しているのでは、と私自身が問われた。
 一方、町内の求めに応え、信徒に呼び掛けて使用済み切手を収集した。「わあ、ありがとう」、が町内の声だった。お役に立ちたいと願う中で、届ける心は膨らむのだと感じた。

 教会とは、神願成就へのチャレンジであり、未完であり期待であるのか。そう問い続けていく中で、最近、明治6年に布教差し止めにより神前が撤去された中から生まれた「天地書附」のことを思う。そして、難儀な人を迎え、神様の心を世に届けるおかげの必要を、あらためて思わせられる。
 教祖様は天地書附を、「これは、決してお守りではない。朝夕によく見える所へ張っておけ。書いてある通りを忘れないようにしたら、おかげが受けられる」とおっしゃる。そのおかげとは、神様の願いが託されたものだと思いつつ、そこをついつい忘れるのが実際ではないだろうか。

 最近、スーパーのレジ係として働く女性信徒から、苦情癖があるお客の対応に困っていると、お届けがあった。そこで私は、「あなたは、どうして教会にお参りされ、天地書附を奉唱なされるのか」と、唐突ながら尋ねた。
 教祖様は、「買い物に行く時、書付をしていけば、忘れないようなもので、これを忘れないように信心するがよい」とも諭し、「おかげは和賀心(わがこころ)にあり」と説かれた。
 おかげは自分一人にとどまるものなのだろうか。外で擦れ違った人をも拝み、神様と一つの心になって、人の心を和らげ喜んでもらい、人を幸せにすることをおかげと心得て、大切な今月今日を生きてほしいと願う。その祈りの結晶として天地書附を頂きたい、と求め合った。
 その女性信徒は、思いも新たに勤めている。「私のレジで文句を言う分、よそで減っているに違いない。神様の祈りを受ける私のレジに、お見えくださり、ありがとう」と。
 ある先師は教祖様から、「信心の真のある者で、頂きたいと願う者があれば、分けてやるがよい」と、天地書附を賜った。私どもがいよいよ信心の真のある者となって、道を開く教会に進ませてもらいたいと、心新たに念じている。

井手 美知雄(福岡県行橋教会)
(「フラッシュナウ」金光新聞2014年1月19日号)

投稿日時:2014/02/17 09:14:53.738 GMT+9



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