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喜びと感謝を土台にした真【金光新聞】

「実意丁寧」な生き方とは

 効率化や利便性が優先される現代社会の中で、手間暇を掛けることの価値と、その大切さをあらためて思わされる。この道の教えに基づく「実意丁寧」な生き方から、人間としてのありようを確かめたいと思う。

 「どうも毎日、手応えがないとぼやく人は、料理にはまるといい。とりわけ、人のために作るといい」と、料理教室に通う中年の知人男性。下ごしらえや火加減など、喜んでもらいたいという、そのふっくらとした心の加えようが楽しいのだと、得意げだ。口に運ぶと、確かにその手間暇を掛けた一品には愛情があふれ、味わい深さを感じる。
 金光教の教祖様は、真心を込めて行き届くという「実意丁寧」な生き方を説かれている。神様や人様が思われてならない、喜びも悲しみも共にしながらつながっていきたいという心によって、人としての幸せが高まるのである。
 教祖様は、取次のご用に専念されるまで、農民として天地のお働きを感じながら、汗水を垂らして家業を勤めた。一くわを振るい、一草を除くことを当たり前の勤めとしつつも、実際にはそれがなかなか実践できないが故に、教祖様は「実意丁寧」と語られたのであろうか。
 それとも、神様のおかげの中にいる喜びを土台にして真を尽くすことの難しさを、教祖ご自身が実感されていたから故に、その大切さを説いておられるのだろうかと、思いが巡る。

 ある夏のこと。高齢の女性が軽い熱中症にかかり、その後、息子から畑仕事を控えるよう諭された。彼女は、畑で取れた初なりを、神様へ供えることが習わしだった。
 「サツマイモの初物を、ぜひ、秋のご大祭にお供えして、神様の喜びに預かりたい」と、胸に迫る思いを息子に伝え、手伝ってもらいながら、日々畑に手を合わせた。
 そして、どうにか収穫できた3本を、「ささやかですが」とお供えする彼女のいちずさにも、実意丁寧を思わされる。

 ある女性の信徒が教会へ参ってきて、「亡くなった父はお酒飲みで、困ったものでした」と話された。その父親は昔かたぎの大工さんだったが、私はその女性に「酔って教会に足を運ぶこともありましたが、いつも奥さんとあなたのことを祈っていました。ところで、あなたはお父さんの大工箱を見たことがありますか。のこぎりもかんなもピカピカでした。『道具のおかげで、仕事をさせてもらっているのだから、毎日きれいにしないと仕事先に申し訳ない』と言っていました。雑に扱えば、雑な自分の人生になることをご存じだったのですよ」とお話しした。

 四代金光様は、「実意をこめてすべてを大切に」と諭された。お粗末のない心の注ぎようが身に付くと、人生はおのずとさすがなものになっていく、と思う。
 コンビニやスーパーには出来合いの総菜が並び、物はあふれて、何でも簡単に手に入る日常である。便利さを当たり前としている反面、恵まれていることへの感謝の心が薄れ、大切なつながりが切れているのではないか。
 物だけではなく、人や起きてくる事柄全てに対し、どこまでも尊いこととして、気持ちを寄せていきたい。

井手 美知雄 (福岡県・行橋教会)
(「フラッシュナウ」金光新聞2015年1月18日号)

投稿日時:2015/01/27 15:00:00.000 GMT+9



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