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共に悲しむ存在が生へ誘(いざな)う【金光新聞】

人と人、人と神を結ぶ力

 大切な人との死別ほど、心を痛めることはないだろう。しかし、「悲しみ」が自分の内面を見詰め、受け入れる契機になれば、人間は本当の意味で生きていることを肯定できる。それは、悲しみに自分と何かとを結ぶ力があるからではないだろうか。

 教祖様は幼いわが子を3度も亡くされている。愛する子が苦しみ、そして死んでいくプロセスに立ち合う経験は、親にとっては耐え難い悲しみを引き起こすであろうことは、私自身、子を持つ親として容易に想像される。その悲しみの根底には、理不尽な運命に対するやり場のない怒りや自分自身の弱さに対する無力感など、ネガティブな感情が渦巻いているだろう。
 そのような悲しみを避けたいと思うのが人情だろうが、大切な人といずれは別れなければならないことは、万人共通であろう。仏教では、愛する者への執着を人間の根源的な「苦」の一つだと説く。そこには、誰かを愛すること自体が、人間存在の奥底に潜在している煩悩の現れとする人間観が見られる。
 しかし、それとは別の捉え方もある。例えば、生活困窮者のための葬送支援や自死遺族のケアなどに従事する中下大樹さんが、その著『悲しむ力』の中で、「悲しむ」とは「見つめる」ことでもあると語っている。末期患者の終末看護や看死(=みとり)に寄り添うビハーラ僧として、500人以上の方々をみとってきた体験から出てきた言葉であろう。きちんと悲しむためには、自分自身の内側を真摯(しんし)に見詰め、それを正しく表現することが大切になる。そのことが、自身の弱さを正直に認め、素直に受け入れることにつながり、それがかえって強さとなる。
 
 この「悲しみの力」によって、悲しい時は悲しいまま、苦しい時は苦しいまま、人生を肯定的に生きていけるという。金光教には「難はみかげ」という教えがあるが、その境地に通じるものだと思う。
 愛する人を喪失する体験は、亡き人を忘れたくないという願望や忘れてはならないという決意に促され、その死者との新たな関係を築きながら、生者自身を新たな生へといざなう。そのような願望や決意は、それらに共感的に寄り添う存在や場(記憶の共同体)を通して支えられる。思い出すだけで悲しみを引き起こさずにおられないつらい体験も、共に悲しむ存在があればこそ、癒やされていくのである。思えば、神様に命じられて教祖様がつらい過去を思い起こしながら「金光大神御覚書」を書きつづった時、神仏も共に悲しむ存在として立ち現れたのであった。
 幸せを望まない人はいないだろう。しかし幸福は、はかなくもろい。その厳然たる事実自体が悲哀の念を呼び起こす。けれども同時に、だからこそ今この瞬間のつかの間の幸福がありがたくなってくる。人は悲しめる存在であるからこそ、幸福を真にかみしめることができるのである。

 悲しみには人と人、人と神を結ぶ力がある。悲しみを媒介として他者(自分の価値観・世界観を超える者・物の全て)へと開かれた関係性の中に生きる時、心のうちに悲しみを抱えたまま、幸せの感覚がもたらされる。この感覚こそ、傍らの他者のために生きる本当の喜びに通じるものではなかろうか。
 悲しみは、月の光のようなものだと思う。神様という名の太陽に照らされてこそ、美しく光り輝く。

宮本 要太郎(関西大学文学部教授)
(「フラッシュナウ」金光新聞 2015年5月8日号掲載)

投稿日時:2015/05/08 10:11:54.907 GMT+9



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