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人を祈り通す覚悟と自覚へ

難儀に寄り添う教誨活動

 「此方(このかた)は、人が助かりさえすれば、それでよい」 教祖様のこのご理解には、教祖様ご自身の真一心に祈り続けたご覚悟と、今に生きる私たちにその覚悟を促す思いが満ちあふれている。教誨(きょうかい)師のご用を通して教えられた。

 先日、全国教誨師連盟から「教誨師は刑務所などに収容されている人との対話を続けています」と書かれたポスターが送られてきた。私自身、教誨師という役割を世の中により広く知ってもらう必要性を感じている。
 教誨師とは、刑務所・少年院等の被収容者との対話をもって、社会復帰の手助けをする人たちのことである。
 私は、12年前から高知刑務所での宗教教誨活動に携わってきた。それは、このお道の信心をもって被収容者の心に寄り添い、少しでもお役に立たせてもらいたいとの思いからだが、そのために何ができるのかを求め続ける中で、次のような体験から、真一心に祈り続ける大切さを教わった。

 2年前のこと。6、7人のグループ教誨活動が始まる直前、一人の30代後半の男性受刑者が唐突に「先生、助けてください」と声を上げた。
 話を聞くと、14歳になる一人娘が大腸がんと白血病にかかり、命が危ないと医師に告げられたそうだ。かわいそうでたまらず、何とか先生たちの祈りで助けてもらいたいとのことであった。
 話を聴き終え、私は彼に語り掛けた。「私たちは拝み屋ではありません。拝んでも娘さんの命が助かるということは保証できません。もちろん私も拝ませてもらうけれど、一番本気で拝まねばならないのは、あなた自身ですよ」。そう言うと、男性は下を向いた。そして、翌月に刑務所を出所していった。

 もう会うことはないだろうし、その後の娘さんの状況を連絡してくるとも思えなかった。しかし、彼の 「助けてほしい」 との願いをむげにはできず、もう一人の金光教教誨師の先生と共に、それぞれの教会でご祈念をさせて頂くことになった。以来、 私は毎日、朝夕に彼と娘さんを思い、願いを込め続けた。
 昨年の初秋、突然、娘さんの母親から電話があった。「ありがとうございます。娘の命が助かりました」。その数日後、教会に、愛媛県の特産品が届いた。送り主に電話してみると、あの時の男性だった。
 「先生、ありがとうございました。娘の命は助かりました。先生に言われたように、暴力団員も覚醒剤もやめて、娘の命が助かることを必死に神様にお祈りしました。今は東日本大震災関連の廃棄物運搬の仕事で貨物船に乗って、海上にいるんですよ。先生、本当にありがとうございました」と、私に喜びに喜んでお礼を言ってくれた。さらに、彼は言った。「神様にお返しがしたい」と。

 実のところ、彼の声を聞くまで、「この祈りは本当に彼にとっての祈り添えになっているのだろうか。本当に娘さんや彼を助かりの道につながらせてもらうことのできる祈りを、私はしているだろうか」と、迷いや疑いが何度も頭をよぎった。しかしながら、病に苦しむ娘さんと男性の行く末を思い、一心にご祈念を続けてきたのである。
 そして、わずか1年少々でこのような目覚ましい大みかげを頂いた。神様は、真一心に祈り続けた覚悟に、ほほ笑んでくださったのである。 この体験は私に、あきらめず、神心(かみごころ)をもって、未来に向けて人の助かりを祈り、願い続ける「このお道をゆく者の覚悟と自覚」をもたらしてくれた。

道願 正美(高知教会長/宗教教誨師)
(「フラッシュナウ」金光新聞2017年2月5日号掲載)

投稿日時:2017/02/07 09:00:00.000 GMT+9



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