title.jpg

HOME › 霊(みたま)と共に生きる心構え作る【金光新聞】

霊(みたま)と共に生きる心構え作る【金光新聞】

誰のための「葬儀」なのか

今日、「コスパ」という言葉に象徴されるように、即物的、現世主義的な考え方が社会を覆い、葬儀の在り方も激変している。葬儀を営む現場に関わる私は、人生の終末を飾る葬儀とは、いったいどういうものなのか、という問いを日々突き付けられている。

 最近、宗教者を呼ばずに執り行う「無宗教」の葬儀が増えている。以前から無かったわけではないが、葬儀を営む現場にいて、ここ10年で急速に増えてきたことを肌身に感じる。
 「神様を信じていない」「特定の信仰を持たない」などを理由に、特定の宗教の儀礼にのっとって葬儀を行わないのだが、亡くなった方の思いは本当にそうなのか。たとえそうであったとしても、先祖は決してそうではなかっただろう。代々受け継がれてきていたものを、何らかの事情があったとしても、断ち切ってしまうことの重大性を思う。

 夫婦共に大変熱心に金光教の信心をしていたある信徒の話である。数年前に夫が亡くなった時、妻が喪主として葬儀を行い、滞りなく見送られた。その後、妻が亡くなった際には、子どもたちが無宗教で葬儀を行うことを決めた。
 「先生の送迎は手間だし、どうお迎えすればよいか分からない」といった理由を挙げていたが、詳しく話を聞くと、長男の嫁は他の宗教の大変熱心な信者らしく、それとの兼ね合いもあったようだ。結局、葬儀は無宗教で仕えられたが、数カ月後に故人の次女が熱心に信仰していた両親のために、遷霊行事だけはしたそうだ。しかし、その際、次女は 「ご献備」 という言葉を知らなかったという。
 「ご夫婦で、あれほど熱心に信心をされていたのに…」と、私は大変残念な気持ちになった。葬儀は、先祖のことも含めて故人が生前に大切にしていたものを、あらためて遺族がわが身に引き受けていく機会だと思っている。私自身もそうできるよう、子孫に自分が大切にしていることを伝えていく大事さを感じた出来事だった。私は教内の研修会などで話をする際、必ず家族に同行してもらい、わが家の遍歴や私の考えをあらためて聞いてもらっている。

 また、無宗教で家族葬ご依頼を受けた時のことである。通夜前に式場に行く機会があり、遺族にあいさつをさせてもらったところ、どこかで訃報を聞いた故人の友人が弔問に訪れた。ところが、喪主である息子は、「帰ってもらうよう言ってほしい」と、私たち従業員に頼んだのである。その方はやむなく入り口付近からお参りして帰った。
 私は、家族だけで送りたいと思ってのことだろうと考えたが、喪主には「自分の知らない人が来ると困ってしまう」という思いがあったと聞き、驚きを隠せなかった。すると、その数分後、二十数人が祭場に訪れた。「また、お帰り頂かないといけない」と思ったのだが、喪主はその人たちと談笑しているではないか。喪主の会社の同僚や友人だったのだ。その場面に立ち会った私は、「葬儀がいったい誰のためにあり、何のために行われるものなのか」という
問いを突き付けられた。

 葬儀とは、それまで生きていた人がいなくなった世界を、残された人たちが再び歩み出し、生きていくという引き継ぎを行う儀式である。生前の生きざま、 なりわい、 人間関係などに思いをはせつつ、会葬者と故人の思い出話に花を咲かせる中で、遺族の知らない、また見えなかった故人の人柄と出合う場でもある。そうした体験を通して、故人のみたまと一緒に生きていく心構えができ、さまざまな事柄の引き継ぎができていくのだと思う。

矢部 晃(葬祭ディレクター)
「フラッシュナウ」金光新聞2019年3月24日号掲載

投稿日時:2019/05/06 8:00:17.031 GMT+9



このページの先頭へ