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第1回 信じられるまで「なぜ」を【信心と理屈の間で】

出入り自由のお広前で〝偵察〟の日々

イラスト・奥原しんこ
かんべむさし(SF作家)
 今号から、月1回の連載で12回、エッセーを書かせて頂くことになった。金光教やその信心について、レベルの高いことを書ける人間ではないので、気軽に読んで頂けるものを、心掛けようと思っている。その点、ご寛容をお願い致す次第である。
 で、1回目だから、まず略歴紹介から始めさせて頂く。当方、いわゆる「団塊世代」の一員で、昭和45年(1970)に社会人になり、大阪市西区にある広告代理店に勤めだした。近くには当時の筆者が、「ここは何だろう。お寺かな。神社かな」と思っていた、入母屋造りの立派な屋根を持つ大きな建物があった。
 門柱には、金光教玉水教会と明示してあるのに、それは見ていなかったのだろう。まして、宗教には縁も興味もなかったから、その二十何年後に、自分がそこへ通わせて頂くことになろうとは、夢にも思っていなかったのだ。
 趣味は上方落語の鑑賞と読書であるが、心配症の怖がりで気が弱い性格。だから若い時分には常に、「自分はこの先、どうなるのか」という不安に襲われていた。そのため、安心・自己実現・願望達成法の本も、よく読んでいた。後年、サトウサンペイ氏の著書『ドタンバの神頼み』も読み、冒頭から玉水教会が出てきたので、「ああっ。あそこか!」と、驚いていたのである。
 6年間勤めた代理店時代、広告の企画制作や、販売促進のプランニングをした。特に販促の仕事では、物事を論理的に追究する猛訓練をさせられ、それで当方、ぐっと「理屈っぽく」なった。
 しかし一方、仕事上、当然の制約とはいえ、常に「明るく、楽しく、便利で、幸福」という、その枠内で発想を続ける年月には、ストレスが増した。おまけに直属の上司が、皆から嫌われていた陰険な人物だったから、その面での重圧も大きかった。
 そこで、偶然SF雑誌のコンテストを知ったので、ストレス発散を狙って、無茶苦茶な発想の小説を書いてみた。それが選外佳作に選ばれたのを機に、作家という自由な世界へ身を移したのだが、決心するまでには迷い悩んでノイローゼになり、大学病院の神経科へ行ったほどだった。当時、ご神縁を頂いていたなら、そうまで苦しむ必要はなかったはずだが、まだその時期が来ていなかったのだろう。
 27歳の年末に脱サラし、作家としての仕事は、一応順調に進んだ。SFがブームになった時期もあり、おおかた10年余りは好調だったのだ。しかし40代に入ってから、公私ともに問題が起きてきた。若い世代の読書離れが進み、出版界が長期不況の時代に入ったこと。母親が高齢化し(父親は早くに死去)、その介護の問題と並行して、身内に家庭内不和も起きて、長期化したことなどである。
 当方、3人兄弟の末っ子だが、居住地の関係もあって、長男の役を務めていた。仕事上の問題を抱えている上に、老母から、身内の不和に関する泣き言を延々と聞かされる。それが2年、3年と続いたので、心が疲れ果てるという状態になってしまった。そんなわけで、『ドタンバの神頼み』をあらためて読み直し、その結果、玉水教会へ参らせて頂くことになったのだ。
 ただし、それまで宗教には縁が無かったし、理屈っぽくて疑い深くもあるから、最初からその世界に「飛び込めて」いたわけではない。玉水教会は大きな教会で、誰でも出入り自由だから、まずは偵察に出掛けていた。お広前に上がり込み、長椅子に座ってきょろきょろし、門前にある施設で教内書籍も買って読んで、『ドタンバの神頼み』に書いてあることが本当かどうか、確認をしていたのだ。
 そして、教会長や在籍の先生にあいさつもしないまま、それを断続的に2年ほど続けていた。その間、教会側からも参拝者からも、一度も「どなたですか」「何のご用ですか」などと聞かれなかったことは、一つの安心要素にもなった。かくして47歳の時、ようやく決心し、「お届け」をしていたのである。
 以来今日まで、「やめようか」と思ったことはないが、信心の進歩向上については、いつまでたっても初歩レベルで、事が起きたら心配ばかりしており、前記した「理屈っぽさ」も、仕事柄もあって、むしろエスカレートしている。
「信仰は科学ではわかりません。わかろうとすること自体がナンセンスです。なぜなら、科学ではホワイ(なぜ)がすべてのもとになっていますが、信仰にはホワイがあってはいけないのです。信仰は、ただ、信ずるということ以外にはないのです」
『安部利見感話』(金光教高須教会)の、この教えの意味はよく分かり、その通りだと思う。しかし同時に、それを自分が実感するためには、「なぜ」で押していって、「もうこの先は信じるしかない」という地点にまで、まずは至らなければならないだろうとも考える。最初から丸ごと信じられる人を、うらやましいとは思うものの、自分が下手にそれを目指したら、うそになってしまうのだ。
 ともあれ、略歴紹介から始めたこの連載エッセー、次回からはその「理屈」を交えつつ、さまざまな題材を取り上げさせて頂こうと思う。どうぞ、ご愛読のほどを。

「金光新聞」2019年1月6日号掲載

投稿日時:2020/04/28 11:25:11.810 GMT+9



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