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第2回 我々は怪しい〝極少数派〟?【信心と理屈の間で】

日本人はなぜ宗教を警戒するのか

かんべむさし(SF作家)
 今回、「日本人は、なぜ宗教を警戒するのか」について、書かせて頂く。この場合の日本人とは、特定宗教の信奉者ではなく、日常ではせいぜい、法事のとき僧侶に来てもらう程度の、世間一般の人たちという意味である。
 警戒する理由の第一は、人をだまして金を取り、弱みに付け込んで物品を買わせるなど、詐欺同様のエセ宗教が少なくないからだろう。また資産隠しや脱税目的で宗教法人法を悪用し、名前だけ宗教を名乗る組織や個人も存在する。当方、ある財界人が自宅を某宗教法人の別院にしていた実例を、直接知っている。
 さらに歴史的に見れば、江戸幕府の政策で檀家制度が固定された結果、僧侶が一種の特権階級になり、それが間々、堕落を招いたことも事実だ。『沢木興道聞き書き』(酒井得元。講談社学術文庫)には、明治時代、馬に乗って従者を連れ、外に囲った女の家へ通ったという、「高僧」の話が出てくる。
 無論これらは、ごく一部の人間の事例だが、一般の人たちにとっては、「怪しい」「うさん臭い」「言うことと、やってることが違う」という印象が強く、それが宗教自体や、宗教家や信者全体にまで及んだのだろう。日常感覚として、とにかく警戒しておく方が安全で、オウム真理教事件は、その決定版になったのだ。
 しかしそれなら、日本人は神仏が嫌いなのかというと、そんなことはない。昔から、伊勢参りや四国巡りなど盛んだったし、各地の神社仏閣に参る善男善女も多かった。村や町内には、お地蔵さんがありお稲荷さんがあり、家には仏壇があって神棚もあった。
 現在も、若年層の宗教離れがいわれているが、それでも正月や十日戎(とうかえびす)などには、大勢の人が参拝する。その意味では、日本人は神仏が嫌いどころか、好きなのだ。ただし、その「好き」を分析すると、大方の人の神仏に対する姿勢は、まずは生活や風俗上の、慣習としての接触だということが分かる。初詣など、その代表例だろう。
 そして、何か身辺に問題が起きたり、願いを持ったりしたときには、それを解決または成就してくれる神仏に参ることになる。病気、受験、商売繁盛、縁結び。それぞれ参拝先が違っても、自分の必要上、それに適した願い先を選んでいるのだから、彼ら自身の心理に何も矛盾はない。
 しかしそれだけに、特定の御利益で釣るエセ宗教には、だまされやすくもなるのだろう。悩みが深くて切羽詰まっているときには、「ついふらふらっと」という心理になるものなのだ。
 何にせよ、日本人は昔から、必要なとき必要な御利益をくれる神仏が好きなのであり、これは身勝手ではあるが、「神仏は人間を助けてくれるべきだ」という、人間を主体とした、ある意味明るくあっけらかんとした処世法とも言える。
 だから当然、神を主体とし、人間はその下位に在るもので、より良く生きるためには、その教えを守るべきなのであるという、西欧やアラブ的な絶対神、体系化された世界観は、敬遠することにもなるのだろう。
 さて。そこで。怪しい団体、うさん臭い人物、窮屈な教義などなど、それらは全て、世間一般の人たちにとっては警戒対象となるのであるが、その通念を背景に、金光教を考えてみれば、どうなるか。
 仮に筆者が、それらの人たちに金光教を紹介したとして、まず返ってくるのは警戒以前の、「そんな宗教、知りませんねえ」という反応だろうと思われる。筆者自身、サトウサンペイ氏の著書『ドタンバの神頼み』を読むまでは、名称程度しか知らなかったのだ。
 そこで紹介を進め、他宗教を否定せず共存共栄を良しとしていること、さい銭やお供えはまったく自由であること、いつやめても何も言われないこと、そして何よりも「取次」ということをしてくれて、教会の先生が、問題の解決や願いの成就を祈念してくれることなどを説明したとする。
 すると、聞いた側の何割かは、「良い宗教だな」と思うかもしれない。しかし中には、「何か都合の良過ぎる話だな。本当かな」と、そろそろ眉に唾を付けかける人もいるだろう。
 そしてこちらが、
「ただし、眼前の問題解決のみにとどまることなく、教えを通して天地の親神様のおぼしめしを知り、そのご恩に少しでも報いられるような生き方をしていくのが、根本だと教えられています」
 そう言ったときには、眉に唾を付けた聞き手の大方が、「ほうら。やっぱりだ」「めんどくさいな」と感じる可能性は、かなり大きいと思われる。となると、その先は言えば言うほど、説けば説くほど、相手は「引いて」いくのである。
『異常性格の世界』(西丸四方。創元こころ文庫)という精神医学の解説本に、「変わり者とは、その時代その社会における、極少数派のことだ」という、実にクールな規定が載っている。
 それで言えば、現代の日本における特定宗教の熱心な信奉者は、変わり者なのであり、その変わり者が「よかれと思って」教えを説くと、多数派たる普通の人たちは警戒する。それはいわば当然の構図なのであり、人に教えを伝えるときには、まずその事実の認識が必要だろうと思うのだ。
 ならば、その認識の先は、どうすればいいのか。自分の信心においては、それこそ「言うことと、やってること」を一致させていくように努め、人には実意丁寧の姿勢で、押しつけがましさを排して、伝えていくのが良いのかもしれない。無論これは「言うはやすく」の姿勢であり、筆者自身、出来ているわけではないのだが。

「金光新聞」2019年2月24日号掲載

投稿日時:2020/05/14 10:49:20.127 GMT+9



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