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第4回 非科学的だから全部うそ?【信心と理屈の間で】

だます宗教、だまされたくない人々

イラスト・奥原しんこ
かんべむさし(SF作家)
 今回は、人のだまされやすさや誤解ぶり、それと宗教あるいは科学との関係について、書かせて頂く。
『トンデモ超常現象99の真相』(と学会。洋泉社)という本があり、奇説怪説、また一般の人々にも「事実だ」と思われている事象が、うそやだましであることを、実地調査や科学的追究で論証している。例えば、ビジネス書のベストセラーでも紹介された「百匹目の猿」という話がある。九州の島で野生の猿が、サツマイモを海水で洗って食べだすようになり、それが一定数を越えた途端、全ての猿が同じことを始めたという。出典は英国の生物学者が自著で書いたことだが、本人、後日真偽を追及され、作り話であると認めたそうだ。
 また、一時期日本のテレビ番組でも紹介されたインドの超能力者サイババは、空中から「聖なる白い灰」を取り出すとされていたが、科学的な分析で、それは生石灰が空気中の水分と反応してできるものだと判明した。つまり彼は、指の間に生石灰を隠して、手品を見せていたのだ。
 だから前の例は、学者が書いているという「権威」にだまされ、後の例は超能力者だという「先入観」と、「手練(しゅれん)の技」に引っ掛かったことになる。
 一方、科学者がそういった技にだまされると、仕事柄その原理を解明しようと思ったりする。その結果、知識が豊富であるだけに、それらを駆使して、壮大な間違い理論を構築してしまうこともあるという。それがまた「権威」となって、だましの再生産に寄与してしまうわけである。
 そして、こういっただましの手法は怪しい宗教や、うさん臭い霊能者も使っており、以前、次のような2例を本で読んだことがある。すなわち、某宗教の本部へ初めて行った人が、教祖なる人からいきなり、「これこれの悩みをお持ちですね」と言い当てられた。驚愕(きょうがく)した本人、一遍で信用してしまったという。だがそれは、受付段階でさりげなく聞き出されていたことで、その相手は座布団を持って教祖の前に案内してくれた。そこに仕掛けがあり、家庭問題は緑とか、金銭問題なら赤とか、座布団の色で教祖に悩みの種類を伝えていたそうだ。
 また、某霊能者に遠隔地から電話をした人が、「どこそこの方ですね」と言われて驚嘆し、これまた信用してしまった。旧型の固定電話しかなかった時代の話だが、その当時、既に電波関係の専門雑誌には、かけてきた相手の番号を表示する外付け機器の広告が載っていた。だからそれを使い、市外局番で居住地を判定していたらしいのだ。
 そんな具合に、エセ宗教や霊能分野にもだましが多いのだが、それでは本物と偽物とは、どう区別すればいいのか。概略、こんな要素を点検すれば、本物であると判定できるだろう。
 ①たとえば未来のことについて、「こうなる。こういうことがある」と告げられたとして、実際そうなった。②そして、その事実は周囲の関係者あるいは第三者も認めてくれ、証言記録にもなっている。③また、その宗教団体なり霊能者なりは、同様の事例を数多く生みだしており、その大方が②の条件を満たしている。④加えて、その団体や告知者は、その力を金もうけの手段にはせず、人助けのために善用している。
「それは金光教のことだ!」と、声を上げたくなった読者は多いだろうし、筆者もそう思った。とはいえそれだけでは、非科学的であることは頭から否定するという、一般の人を得心させられないのだが、実はそこには誤解もある。
 というのが、自然科学は本来、いつ、どこで、誰が実験や観察をしても、同じ結果が示される事象のみを扱う。したがって、非科学的だと排除しても構わないのは、その範囲内で科学の方法によって、否定証明されたものだけなのだ。ところが、霊能や超能力というものは、自然科学の方法では検証できないから、扱えないし、扱ってもいない。よって、厳密には「非」科学的ではなく、「未」科学的な事象だと捉えるべきであり、科学が進歩すれば扱えるようになり、肯定証明もできるかもしれないという、その可能性を認めておくのが本当なのだ。けれど世間一般の人は、未科学も非科学にしてしまうのである。
 ところで、少し種類の違う例になるが、最後にひとつ、筆者の読書経験を書かせて頂く。明治の末期以降、金光教神奈川教会長を務められた福田源三郎師の、『雑嚢』という書籍がある。その中に、同時代の高徳の師だった女性の体験談として、ある赤ん坊を引き取って育てた話が出てくる。
 少年になった彼は盗癖が治らず、世間にもお道にも申し訳が立たないので、その師は心中しておわびをと決心した。その途端に少年が真心を取り戻したという「おかげ話」だが、当方、たまたま他宗教の本を読んでいて、全く同じ話が出てきたので驚いた。
 五郎という少年の名前まで一緒で、筆者としては、信奉者だからではなく、記録の詳しさから考えて、「こちらが元だろう」と思う。しかし向こうは、「あちらが取った」と言うかもしれず、もし一般の人がその事実を知ったら、「どちらかは知らないが、そんなことまでして、だましにかかっている」と思うかもしれない。人はだまされやすいが故に、それに対する警戒心も強く、それが新たな誤解を呼びもするのだ。
 無論、「人が助かればそれでいい」という観点で言えば、出所を争う必要はなく、両方で伝えても一向に構わないのだろうが。

「金光新聞」2019年4月28日号掲載

投稿日時:2020/06/09 10:25:55.906 GMT+9



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