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第5回 拝詞の文言に思いを巡らせ【信心と理屈の間で】

教会の約束事、得心や違和感さまざま

イラスト・奥原しんこ
かんべむさし(SF作家)
 40代後半に金光教を知り、観察と検討の2年間を経て、大阪の玉水教会に通わせてもらうようになった。その間、最初から得心できた事項もあり、違和感を覚えたこともあったので、それらについて書かせて頂く。
 まず「参拝」については、何の抵抗もなかった。自分の心が、座って黙想できる場を求めていたのだから、「この宗教この教会が、その場になるか否か?」、その確認ができれば、自然に「日参」になりだしたのだ。
 ましてや、公私ともに問題を抱えていた者として、「取次」はそれこそ求めていたもので、「こんな場や機会があったのか」と、ありがたかった。通わせて頂こうと決心し、お結界で自分の名前や職業を告げてからは、どんなことでも隠さず正直に、お届けさせてもらいだしたのだ。
 後年、大阪の木津教会、木津秀夫先生の教話冊子を読んでいたら、こんな逸話が出てきた。ある男性が何度か来て、そのたびに師は時間を取り、相手の話を聞いて、教えを伝えたりもした。なのに彼は名乗らず、聞いても答えなかったという。筆者が思うに、プライドが変に高い故か、内心の一線を、どうしても越えられなかったのだろう。その意味では当方、最初から一線などなかったのだ。
 また、通いだした前後、玉水教会初代教会長の教話集である『湯川安太郎信話』を読ませてもらったのだが、その中にも、初めから納得できたことがあった。例えば、「願いはありのままを、ありのままに」という教えがあり、その意味もニュアンスも、一読で分かった気がした。それもあって、お届けも正直にできだしていたのである。
 一方、「勢祈念」には当初、違和感を覚えていた。当方、祈念にしても黙想型で、静寂の中のそれを好む。事前の観察期間中、「通うとしたら、こんなこともしなければならんのか」と、ためらいを感じたのだ。しかし、他の諸事項と同じく、勢祈念への参加も自由であり、嫌なら出なければいいと分かって安心した。
 金光教の、良い意味で「放っておいてくれる」ありがたさであり、すると通い続けるうちに慣れてきて、いつしか違和感もなくなった。現在では折々それに参加もし、拝詞にしろ賛詞にしろ、ダーッと一気に進む時には、爽快感を覚えたりしているのだ。そして、それら拝詞の中にも、最初から「そうそう。そうなんですよね」と思えて、好きになった箇所がある。
 例えば神前拝詞の、「天地に生命(いのち)ありて万(よろず)の物生かされ 天地に真理(まこと)ありて万の事整う かくも奇(くす)しきみ姿大いなるみ働きを 天地金乃神と仰ぎまつりて称(たた)えまつらん」という箇所。
 筆者は若い時代から、漠然とだが、「神とか、ナニナニ神というのは呼称であり、その本質は、力を持った意思、あるいは意思を持った力ではないか」と思っていた。だから神前拝詞のこの部分で、その思いに保証を与えてもらった気がして、うれしかったのだ。
 また神徳賛詞の、「神慈(かんいつく)しみは万代(よろずよ)に遍(あまね)く満ちて果てしなく 神量(はか)らいは奇(くす)しくて人の思いぞ及ばざる」という箇所には、当初「まさにそうなのだ」という、実感のこもった得心はできなかったけれど、「この通りなんだろうなあ」くらいには思えていた。
 そして、通わせてもらい続けた結果、「まさにそうなのだ」という得心に、少し接近しつつはあるが、まだまだ確然とした実感は持てていない。とはいえ好きな部分なので、奉唱しながら内心で、「人の思いぞ及ばざる。そしたら神様、いま抱えてる問題を、どう解決してくださいますか」などと、期待の問い掛けを発したりしているのだ。
 玉水教会には、湯川安太郎師の事績と遺徳をたたえる初代大先生拝詞があり、その末尾は、「教(おしえ)の子等が行末を。照る月の弥広(いやひろ)に恵み給(たま)えと畏み畏み申す」となっている。この部分には、筆者は近年になってようやく、「そうか。自分もその一人なのか」と思えるようになってきた。
 だから、これまた奉唱しながら、「私も教えの子らの一人だと、思わせて頂いてよろしいですか」と、霊前に向かって問い掛けることがある。ある時、そう問い掛けたら、「あんただけと違う。皆や」という言葉が頭に浮かんだのだが、これは本当の感受体験ではなく、自分の潜在意識が作った、「それらしい」言葉だろうと思われる。
 作家の癖で、頭の中で常に、いろんな人の会話をシミュレーションしている。『湯川安太郎信話』は大阪弁をそのまま書き起こしているので、その熟読記憶からそれらしい応答を作ることは、偉そうな言い方だが、別に難しくはないからだ。
 ただし無論、それは形だけならという意味であり、話を「最初から得心していた」件に戻せば、同じ書籍の、湯川安太郎師の修行生に対する訓話でも、似たことを思わされた部分がある。祝詞(のりと)の作り方について師は、「お礼、おわび、お願いを文章にすれば、祝詞になる」と教えている。
 これについては、読むなり、作家としてまるまる分かった気になれた。「独特の用語は知らないが、それを勉強したら、自分にも祝詞が書けるな」と思い、しかし同時に、「それはあくまで、それらしいものならであって、本物は、そう簡単には書けないだろう」と感じていたのだ。
 ともあれこんな具合に、あんなことを思い、こんなことを考えつつ、祈念させて頂いているという、雑念の多い信者です。

「金光新聞」2019年5月26日号掲載

投稿日時:2020/06/29 11:10:06.618 GMT+9



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