title.jpg

HOME › 新資料から教祖様の伊勢参宮を読み解く【金光新聞】

新資料から教祖様の伊勢参宮を読み解く【金光新聞】

難儀は世界との出合い直し

 「当たり前」を問い直し、世界に新たに出合い直す。そうした信心の可能性を、現代に生きるわれわれとして改めて求めていくヒントが、『金光大神事蹟に関する研究資料』には、ちりばめられているように思う。

 教祖様から「人間は、どうして生まれ、どうして生きているか」と問い掛けられた山本定次郎師が、「金光様は何を言おうとされるのだろうか」と不意を突かれたように、当たり前の現実を「問い」のまなざしで見詰め直すことは、現代のわれわれにとってはなおさら簡単ではないだろう。しかし、例えば旅先で、日常のささいな出来事が新鮮に思い返されることもある。旅が簡単ではなかった時代において、苦難の経験を通じた成長に期待した「かわいい子には旅をさせよ」とのことわざには、そうした、現実世界への出合い直しの願いも込められていたかもしれない。

 さて、教祖様の伊勢参宮については、従来、庄屋に残された記録(小野家文書)から同行者と年齢などが、また、母の言い付けで灸(きゅう)を据えた足が道中に化膿(かのう)し苦労した、との記述が「金光大神御覚書」で確認できるのみであった。対して、昨年刊行された『研究資料』所収の記録には、道中の細かい支出内容が示されている。
 同記録には、当時17歳の教祖様が、13人の同行者と共に高野山、大峰山、奈良、伊勢、京都、大坂を参拝および観光したことや、小遣いとして持たされた金1両の使途が確認でき、「旅」の臨場感が伝わってくる。そして、その「旅」の視点から「日常」がどう捉え返されたのか、筆を執り、細かく記録を残した教祖様の心持ちにも関心が及ぶ。中でも注目されるのが、教祖様はその道中で母への土産を2度買っているということだ。
 というのも、従来は「やいとぼうじて難渋」との「覚書」の記述から、道中に大変な思いをしたという「難儀」の意味で捉えられてきたのだが、新たな資料からは、母への感謝の念も浮かんでくるからだ。さらにそこからは、もしかしたら他の教祖様に関わる資料でも、という飛躍さえ思わされる。すなわち、これまで既存資料において「難儀」として解釈されてきた箇所を、別の角度から捉え直してみる可能性である。

 例えば、「覚書」冒頭の「とうがらし、目入り、難渋」といった事柄にはじまり、これまで難儀/助かりという図式で解釈されてきた「42歳の大患」さえも、「難儀」というその見方自体を、神との関わりへ向けて取り上げ直させられ、教祖様における世界への出合い直しの出来事として記されることとなったのではないかと、そんな可能性を改めて考えてみたくなるのだ。もちろん、人間としての生の一歩一歩の重みや切実さを、直ちに肯定的な意味に再解釈すべきだとは思わない。むしろ、「難儀」は「難儀」として抱えられ向き合われていく中に、その重み故の助かりの世界が開かれるのだと信じたい。しかしだからこそ、混迷する明治の世にあって、教祖様は過去の出来事を、その切実さ故の「開かれ」へ向けて、感謝の念を織り込みつつ振り返らされ、帳面に書き記していったのだろう。
 
 新たな資料を手掛かりに教祖様を頂き直していくことは、世界との豊かな出合い直しへの期待を胸に、それこそ「旅」するような気持ちで、かたくなになった物の見方や心のありようを解きほぐしつつ、同時に、そのように人間を凝り固まらせる現代社会の「当たり前」、ひいては、今われわれが当然のこととして大切にしている、信心それ自体の「当たり前」をも、もう一度問い直していくことなのではないかと思う

白石淳平(金光教教学研究所所員)
「フラッシュナウ」金光新聞2020年8月16日号掲載

投稿日時:2020/08/24 11:50:06.025 GMT+9



このページの先頭へ