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第8回 核心はいまだ分からぬまま【信心と理屈の間で】

「オウム真理教事件」とは何だったのか

イラスト・奥原しんこ
かんべむさし(SF作家)
 本物の宗教とはどんなものなのか。それを逆から考えてみるため、偽物の代表例として、オウム真理教を題材にさせて頂く。
 社会人になった1970年以降、数多くの大事件があった。その中で筆者が、週刊誌の特集号や緊急出版本を次々に買い、むさぼるように読んだものが3例ある。「三島由紀夫切腹事件」「グリコ森永事件」「オウム真理教事件」であり、どれも「本当のことを知りたいのに、読んでも読んでも分からない」という点で共通している。オウム関係など、段ボール箱1杯分ほど読んだのだが、やはり核心がつかめなかった。
 オウムは1980年代後半から活動が目立ちだしており、89年に宗教法人となった。けれどもその頃、すでに被害対策弁護団が結成されており、90年代になってからは、土地利用を巡って熊本県から告発されてもいた。以後、急速に「怪しさ」を増し、それが「危険性」に変わって、ついに95年の3月、地下鉄サリン事件を起こしたのだ。
 しかしそれ以前、まだそこまで危険な団体だとは思われていなかった時期にだが、筆者は「これは、ちょっとおかしいな」と感じたことがある。というのが、80年代の末だったか、大阪支部主催というコンサートの案内状が来た。新聞社の年鑑か何かで宛先を知ったらしく、それ自体は間々あることなのだが、封筒が粗末な茶封筒で、団体名や所在地はボールペンで走り書きされていたのだ。
「こういう場合、それらを印刷した封筒を使うのが普通だし、それが用意されてなくても、ゴム印くらいは作るものだがな」
 ビジネスマン出身者として、その「普通ではない」点に引っ掛かり、世間常識を知らない若い連中が、受取人に与える印象なども考えずに、やっているのだろうと思っていたのだ。
 このとき筆者は、まだ金光教には無縁だったが、無論コンサートにも行かなかった。そして、玉水教会に正式に通いだして半年ほどたった時期、地下鉄サリン事件後に、山梨県上九一色村のオウム教団施設が捜査された時には、報道ヘリの空撮映像にがくぜんとしていた。
 なぜなら、サティアンと称する巨大な建物が複数、何の統一性もなく、ばらばらの向きで立っていた。宗教施設とは思えない、工場か倉庫のような外観で、しかもその屋上には、生ごみなのか産廃物なのか、黒のビニール袋が数多く放置されている建物もあった。
 普通、宗教施設は建物の美的配置に留意するもので、お寺や神社にはその様式が幾つもある。そして、境内や建物内の清潔さも必須条件になっており、掃除を修行の一つにしている宗派も多い。しかし、オウムの施設には美もなく清潔さもなく、逆に「汚らしさ」を感じていた。それだけで全体が分かった気になり、「これは宗教でも何でもないな」と判定していたのだ。
 また、報道特番で流された若い信者たちの映像には、交渉や抗議に来た人を怒鳴りつけたり、口汚くののしったりする光景もあり、その言動にせよ顔や雰囲気にせよ、「粗暴」を感じさせられるものが多かった。洗脳による狂信の結果だろうが、それもまた普通ではなく、オウム真理教が「宗教でも何でもない」ことの証拠に思えていた。そんなわけで、「それなら、あれは一体何なのだ」と、週刊誌の特集号や緊急出版本を、次々と読むことになっていたのである。
 そしてそれらによれば、あの教祖は、ある段階から自己肥大や妄想に歯止めが掛からなくなり、最後は自分自身をも教団をも、コントロールできなくなっていたのではないかという。幹部信者間の勢力争いや足の引っ張り合いもあったらしく、これは宗教か否かを問わず、組織というものが示す通弊だと言える。
 組織暴力団の元幹部が、「いまはオウムの特攻隊長をやっている」と漏らした話もあり、外国勢力の関与も噂(うわさ)されて、ついに武装蜂起計画にまで至っていたらしい。教祖以下の大半がアニメ世代であり、その影響による、現実と虚構の混同を指摘する意見もあった。
 一方、サリンなどの製造には、優秀な科学者だったとされる若い信者たちが関係しており、入信の動機は、「悩みや病気を解決してもらった」や、「いまの社会は間違っているので、変えなければと思った」、あるいは「勤めていた企業では命じられた作業をするだけだったが、こちらは予算を潤沢に与えられて、自由に研究させてくれるから」など、さまざまだという。
 これらの事例からは、一の経験で十まで信用する短絡思考、社会の成り立ちに関する視野の狭さ、さらに研究については、良識や倫理観念の欠如がうかがえる。「殺すことがその人を救済することになる」という思想など、自分たちはそれを実行してもいい存在なのだと思っていた点において、傲慢(ごうまん)以外の何物でもない。
 とまあ、それらの解説や分析で、部分的には「なるほどな」と思えたのだが、事件の核心はいまだに分からないままなのである。
 しかし強く感じたのは、彼らの精神的な未熟さであり、「普通は」とか「常識では」という判断基準が身に付いてない、「世間知らず」ぶりである。たとえ良い方向へにせよ、「普通」や「常識」を超えても構わないのは、まずその基準を満たしてからだろうと思うが、基準自体を有してなければ、自己の判断の正誤も検討のしようがないのだ。その意味では、信者にせよ教団にせよ、最初から常識を超えた言動を示しているのは、危ない存在だと言えるだろう。

「金光新聞」2019年8月25日号掲載

投稿日時:2020/09/17 09:21:38.839 GMT+9



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