title.jpg

HOME › おかげ生み出す真の信心へ【金光新聞】

おかげ生み出す真の信心へ【金光新聞】

「信心」─動と静、二つの側面

 「信心」と「信仰」という言葉が持つニュアンスの違いから見えてくる風景を一つずつ確かめながら、改めて教祖様に始まる「お道の信心」について、考えを巡らせてみたい。

 私は大学で宗教学を教えているが、授業で金光教について話す時、「信心」という言葉よりも「信仰」という言葉を使う方が自然に感じる。なぜならば、学問の世界では、圧倒的に「信仰」を使う頻度が勝り、「信心」はほとんど使用されないからだ。学問の言葉では、「信心」の働きを十分に表現でき難いことも影響しているように思う。
 学問だけでなく、諸宗教においても、もっぱら「信仰」を用いて宗教的な生き方とその歩みを表現することが多いようだ。一神教を基にした宗教観にとって、自覚的な心の働きを強く意識させる「信仰」という言葉の方がふさわしいのであろう。

 ところで信心には、「(神仏を)信じる」という動的な側面と、「信じる心」という静的な側面が見られる。
 前者は、祈願や参拝といった行動となって現れるので、自他共に認識しやすい。しかし、その行動は、(自分の意志ではなく、おのずから生じてくる)信じる心としての「信心」が伴っていなければ、「おかげがあれば参る」といった損得勘定に陥りやすくなる。
 本教でも、「(私が)信心する」のではなく、「(神様から)信心させて頂く」あるいは「信心になる」のであるといわれる。自分主体の信心だと、願い通りになるかならないかという結果にとらわれて動揺しやすいが、いったん「信心になって」しまえば、起きてくること全てに信仰的な意味を見いだせるようになる。「おかげを求める信心」から「おかげを生み出す信心(真の信心)」への転換と言ってよいだろう。

 「金光教教典」に伝えが載る荻原須喜師が、かつて病気で苦しんでいた時、信心深い夫が教祖様の広前に参拝した。教祖様から「どんな信心ができておるか」と尋ねられ、日本国中のあらゆる神仏に信心しますと答えると、教祖様は、それでは一心にならないから、どこでもいいので一つに限って信心すれば、おかげを受けられると教えられた。そこで須喜師は金光様に一心になっておかげを頂いたが、それにとどまらず、さらに多くの人のことを神に頼んで助けた。一心になればおかげを頂けるが、さらにそのありがたさを忘れず、他の人の難儀を神に頼むことで真の信心となっていったのである。島村八太郎師の伝えにも、「真の信心ある者は神なり。ゆえに、神の取次ができるのじゃ」とあるように、このお道では真であることと、神心(かみごころ)となることは同義であるように思う。
 教祖様も、かねて「信心文さ」と呼ばれるほど信心深かった。それでも難儀が続いたことから、自分主体から神様主体の信心、すなわち真の信心へと展開していったのだ。このように、一般的な意味でのおかげを求める「信心」に対し、教祖様に始まる「お道の信心」には、それを含み込みながら、さらに大きく転換させる面がある。それは、「神人あいよかけよ」の境地がそのまま信心の内実となってくるということであろう。

 教外の人に「信心」を伝えようとすると、ややもすれば通俗的な意味で捉えられかねない。「真の信心」が身についてくると、自分主体から、われも人も神も共に助かる信心へと、おのずと広がりが生まれてくる。おかげを求めての信心が機縁だったとしても、さらに進んで、おかげを生み出す信心にならせて頂きたい。そして、世間的な意味での「信仰」とも「信心」とも少し違うものを、どう言葉に表し、伝えていくのか、そこが信奉者一人一人に問われている。

宮本要太郎(関西大学文学部教授)
「フラッシュナウ」金光新聞2020年9月20日号掲載

投稿日時:2020/09/30 10:40:52.167 GMT+9



このページの先頭へ