title.jpg

HOME › 第9回 伝えたい、やさしい世界観【信心と理屈の間で】

第9回 伝えたい、やさしい世界観【信心と理屈の間で】

人と生き物が意思疎通できるわけ

イラスト・奥原しんこ
かんべむさし(SF作家)
 人と生き物とのコミュニケーションについて、「おもしろいなあ!」と思ったことを書かせて頂く。
 教典の「金光宅吉の伝え」の中に、「苗代(なわしろ)にひきがえるが入って卵を産んで困ります」と、願い出た者の話がある。それに対して教祖様は、「よそには封じると言うが、うちでは封じない。かえるに、あぜで遊んでもらうようにすればよい。うちの田に入らないようにすれば、よその田に入るから」と教えられた。
 自分の田ばかりではなく、よその田にだって、入らない方がいいでしょうという教えには、「なるほどなあ」と得心させられる。そして、教祖様の祈念によって、「かえるは本当に、あぜで遊びだしたのだろうな」と、民話的な光景も想像させてもらえる。
「藤井広武の伝え」には、うんか(田にわく微小な虫)の被害についての話がある。田に油を入れて防ぐのだが、教祖様は、「虫も天地の間にわいて来ているのであるから、うんかがわいても、一反(たん)の内一畝(せ)くらいでも残して、ここはお前にやるからと言って、油はほかへ入れよ」と教えられた。
 興味深いことに、大阪の玉水教会初代教会長・湯川安太郎師にも、同種の取次例がある。枇杷(びわ)畑を野ウサギが食い荒らすので困っていた信者に、「神様は野ウサギの食代(くいしろ)も含めて、枇杷を育てておられる。何十本かある枇杷の木のうち、四本なり五本なりを決めて、これは食べてもいいが、他の木には手をつけないようにと願いなさい。私もそう願うから」と教え、実際そうなったのだ。
『空気のような話』(弘中衞。金光教徒社)という本には、山口県豊浦教会初代教会長・水岡時勇師の、犬を改心させた話が載っている。猟犬として役立たずだから、飼い主は殺して毛皮を取ろうかと考えた。水岡師はその心得違いを叱り、当の犬には、「汝(なんじ)の命は私と同じく、天地の親神様から頂いたものだ。この世に生きている以上、お役に立たねばならぬ」と、説き聞かせた。犬は師の顔をじっと見て、分かりましたと言わぬばかりに、両耳を動かした。以後、イノシシの駆除犬として活躍し、山口県下一斉駆除の時には、一等賞を受けたという。
 これらの事例には、どれも「やさしさ」や「おだやかさ」があり、筆者が思う金光教の雰囲気そのままであるため、好きなのだ。そしてSF作家としては、「こういう話は、どう説明すれば、宗教とは無縁の人にも、納得や共感をしてもらえるだろう」と考える。右記のようなコミュニケーションも含めた意味での、人と生き物との「共生」システムについて、何か疑似科学的な仮説ができないかしらと思ったりもする。
 例えば、犬や猫を飼っている人は、「彼らは人間の言葉や気持ちを理解する」と力説する。しかしそれは、実は話が逆で、かわいがっているペットと接している時には、人間の意識レベルの方が、ペットと意思の疎通ができる領域にまで、「下がって」いるのだという説がある。
 これは、いわば「波長」同調説であり、筆者もそれを実感したことがある。無人の小さな神社の境内に犬がおり、静寂の中、こちらの意識レベルが下がっていたのか、明らかにそいつと意思の疎通ができていて、驚愕(きょうがく)していたのだ。教典の「近藤藤守の伝え」には、教祖様の「信心する者は犬猫にまで憎まれぬようにせよ。また、犬猫にまでも敵をこしらえるな」という教えもあり、これは人が悪意を持った時の、波長の乱れで説明できそうだ。
 一方、ヨガの世界には「気」という概念があり、宇宙に充満している根源エネルギーのことだという。筆者の読みかじりの解釈では、「大いなる意思」でもあるようで、それなら「神」とイコールではないかと思うのだが、正統的なヨガでは神という言葉は使わないそうで、気と称している。
 そこで、SF作家の飛躍思考として、その気は全ての生き物が共有しており、気のコミュニケーションというものが成立するのであると、そんな仮説も作れそうに思う。言語以前の、意思と意思との直接接触だとも言えそうで、これも筆者は若い時代に、まだ言葉を知らない赤ん坊と、確かにそういう交流ができていた経験を持つ。
 さらには、現実の科学にも「ガイア理論」という仮説があり、これは簡単に言えば、気象以下の自然環境から動植物相まで、全てを含めて、地球はひとつの「巨大な生命体」なのだと説くものである。ウィキペディアには、科学技術で「地球環境に対して人為的な介入を行う」にしても、「地球の大きな生命の流れとでも呼んだ方がよいような、全体的な何かに配慮したうえで判断すべきだ」という、ガイア理論から生まれた提言も紹介されている。
 仮説とはいえ、ここまでくれば、「神」という存在まであと少しだと思うのだが、自然科学だから、その概念の導入はない。しかし筆者としては、SF作家が作る仮説になら、これも援用できそうに思うのだ。
 とまあ以上は、冒頭に紹介した「やさしくておだやかな」エピソードを、宗教とは無縁の人に、どう説明すれば納得も共感もしてもらえるか、それを考えるため、あの説やこの論を引用した試考である。
 しかし、そんなややこしい理屈は抜きにし、「情」の面で考えれば、これらの逸話を、「日本昔ばなし」式のアニメ漫画にしたら、子どもたちが喜ぶのではないかと思う。DVDにして、保育所や幼稚園で見せたら、良い情操教育になるだろうとも感じるのだ。

「金光新聞」2019年9月22日号掲載

投稿日時:2020/10/19 155:34:52.071 GMT+9



このページの先頭へ