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壁を取り払い新たな経験へ【金光新聞】

真っさらな心で学ぶ、祈りと姿勢

 私は、平成27年から4年にわたって開催された、金光教北九州教区の青壮年教師研修会に参加した。その際、「学ばせてください」という祈りをもって研修に臨んだ。その祈りには、私たち自身を更新し、見ている世界を変える力があると信じている。

 同研修会の参加に当たり、一心に祈る同年代の教師がいた。「神様から賜った貴重な時間と財のご都合を頂いて、参加させて頂きます。どうぞ、私の考えや尺度を放して、内容を純粋に学び取らせてください。改まりにつながる場にならせてください」と、教会のお結界で毎回お届けし、祈念していたという。
 そこには、自分の尺度や先入観で研修内容を解釈してしまう危うさが意識されている。そういう身であるから、どうぞ「真っさら」にならせてくださいと、祈りを込めているのだろう。自分の枠を放して学ぼうとする祈りと姿勢に感銘を受け、私も同様に祈り、研修会に臨むようになった。

 ある回の研修会で、各参加者が現状のご用の中で大事にしていることや、その取り組みを発表する場があった。
 女性のある教師が、「信奉者をはじめ、ママ友や同世代の仲間とスマートフォン(スマホ)を使って、グループでやりとりしながら、信心や教えを共有している」と発表した。その内容を聞きながら、「スマホでのつながりで信仰的な深い話など、ましてや大勢でのやりとりでは難しいのでは」「お広前という実際の場が大切だ」と思い、また、「ママ友」という言葉に、どこか自分とは切り離された感覚になったのも確かである。
 しかし、そういう私自身の思いを放しながら、時間をかけて話を聴いていくと、さまざまなことが分かってきた。対面ではなくスマホのやりとりでこそ、悩みや思いを打ち明けやすい人もいて、未信奉者を誘いやすいこと。具体的な相談についてのアドバイスや教えが、その相談者以外の人たちにも気付きと学びをもたらすこと。さらに、決してスマホでのやりとりだけで十分だとは思っておらず、お道の信心にご縁がなく難儀されている人に、何とかお道の輪が届くようにと願っていることが分かった。
 「自分とは、立場・考え方が違う」と壁をつくるのではなく、祈りながら言葉を交わし、聴き合うことを通して、取り組みの根底にある「願い」に触れられた。また、その「願い」へ向けて、どのように取り組んでいるか、創意工夫や尽力の軌跡をも感じた。このことを通して「では、私は何ができるだろうか」と、改めて自らの願いと取り組みを確かめる機会を頂けたのである。

 昨今、世の中では、インターネットなどさまざまなメディアを通して、自分が望まないような情報から遠ざかり、望むものしか見えなくなって「自分の世界」に固執する状況(フィルターバブル)や、価値観の似た者同士が同調し合うことで、自分が正しいとの意識が増幅されること(エコーチェンバー現象)が問題視されている。これらは排他的な意見や誤情報が広まる一因とみられている。
 私たちは、身近にある「違い」に接した時、思わず境界線を引いて際立たせてしまうことが多い。しかし、そういう時こそ、「学ぶ」姿勢でいることができるよう神様に祈っていくことで、今までの自分にはないものに出会えたり、改めて自らの願いを再発見できたり、さらには、思いも寄らない神様のみ思いに気付かされるといった経験を得る可能性が開かれていく。
 その経験を繰り返し、自らを更新して、見えてくる新しい世界を楽しみながら、「今、何をなすことが、ご神願にかなうのか」と、日々、求めていきたいと願っている。

野中正幸(福岡県北九州八幡教会)
「フラッシュナウ」金光新聞2020年11月1日号掲載

投稿日時:2020/11/17 14:05:28.787 GMT+9



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