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他者と積極的に向き合う勇気【金光新聞】

差別を自分の事として考える

 近年、マスコミでは「差別」を巡る言説が騒がしい。政治家の発言など、すぐに幾つかのことが脳裏に浮かんでくる。とりわけ、新型コロナウイルスの感染者への偏見は、差別を今一度手元に引き寄せて考える契機となった。改めて差別に向き合うありようを求めてみたい。

差別を対岸の出来事とする心
 近年、私は「同和問題にとりくむ大阪宗教者連絡会議」という組織で事務局長の任を受け、3年間、さまざまな人権問題、差別問題に取り組んだ。これまでに宗教者も差別に加担した事実があることなど、さまざまな差別の歴史と現在の課題を学ばせてもらい、確かに知識は増えていった。
 しかしながら、そこで改めて気付かされたのは、差別する側でもされる側でもない第三者的に差別を考える自分の姿だった。部落出身の方、LGBTの方など、いろいろな立場の当事者と直接会って話を伺ったが、当時を振り返ると、対岸で起こっていることのように傍観するまなざしが自分の中にあったと悔やまれる。「差別を自分の事として考える」。この紋切り型の言葉に血肉を通わせるには、どうしたらよいのだろうか。
 私が高校時代の話である。同級生の一人が、ある日を境に本名の韓国名で学校生活を送り始めた。その後、弁論大会に出場したその同級生が、主張した内容は今でも覚えている。「在日韓国人であることを友人に打ち明けた時、口々に『そんなん関係ないやん』と言われた。初めはその言葉に救われた気がしたが、徐々に韓国人として認められているのだろうかと心が曇りだした。朝鮮にルーツがあることを誇れる自分になるには、どうしたらいいのか…」
 その時、私は直接打ち明けられたわけではないが、おそらく同じことを言っていただろうと想像し、自らの隠された差別心がさらされた気がした。相手のことをいたわっているようで、差別とその歴史を覆い隠してしまい、またそのことが相手の尊厳を奪うことにつながってしまう。差別という抽象的な問題がどこかにあるのではなく、差別はいつも具体的に、私たちが生きる日常で起こっている。先のエピソードは、そのことを私に思い出させてくれる。

私を変えるすべを考え続ける
 昨年来の新型コロナ感染者に対する差別は、社会に大きな分断を生んでいる。ウイルスにいつ感染するか分からない不安が募るあまり、排除心が喚起されている。誰もが〝差別はいけないことだ〟と理解し、一人一人が平等に扱われることを求めながら、なぜ人は差別をしてしまうのか。
 自分の命を脅かすものを恐れることは、動物としての防衛本能であるだろう。人間に備わる本能に因があり、その恐怖や不安から、誰もが誹謗中傷や偏見による差別心を生むとするなら、そのことを前提として、差別を克服していく道を探っていかなければならないと思う。全ての人が差別する可能性のある危うい存在であり、同時に差別される存在にもなり得るのだ。
 あるドキュメンタリー映画監督は、作品を作る動機を「人は変われるのかという問いはとても大事で、そのすべを考え続けなくてはならない」ためであると述べている。その言を受けると、私たちは差別を乗り越えるために、自らがどう変わっていけるのかを常に考え続けることが必要ではないか。
 決して許されないと分かっていても、差別の兆しは日常の至る所にある。差別から逃れ難いことに向き合い、または向き合おうとしない自分の姿を素直に認め、変わろうとすること。その改まりの積み重ねによって、磨かれていく存在が人間である。そういう存在である自分自身を、そして他者を積極的に分かろうとする勇気が、差別心にあらがう力になるのだと思っている。避けるべきは、差別に無関係を決め込む、体のいい諦めなのだ。

文/四斗晴彦(大阪府枚方教会長)

投稿日時:2021/07/09 14:40:44.264 GMT+9



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