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人以外の視点で感得する天地【金光新聞】

個を超えて生かし生かされる「理(ことわり)」

 例えば、思いも寄らない視点や立場からこの世界をまなざすことができたなら。格差や分断など、人間社会におけるさまざまな構造的問題が再燃あるいは可視化する今、私たちが求めるお道の信心は、改めてその視界の開かれを求められているように思う。

個であり全体である「生命」観
 「人間は、どうして生まれ、どうして生きているか」との教祖の問い掛けに不意を突かれた山本定次郎は、そこで語られた「天地のお恵み」についての教えを、「一言一言が胸に突きささるよう」な感激をもって受け止めた(金光教教典より)。そこでの感激は、例えば動物の身になって初めて痛感するような、生命そのものの働きに触れる事態なのではないだろうか。
 生物による感染症の媒介を題材にしたファンタジー小説『鹿の王』(上橋菜穂子)は、そうした生命の深遠さを感じさせる物語だが、とりわけ、作中で紹介されるウミウシの生態が興味深い。捕食した藻の葉緑体で光合成を行うというそのウミウシは、成体になると光合成のみで栄養を賄う半植物のようになり、卵を産むと一斉に病死してしまう。しかも、その病因が、幼体時に食べた藻だというから驚きだ。産卵のみならず、次世代に譲り渡される生命自身の働きにより、あえて病素となる藻を摂取している可能性さえ浮かぶからだ。(ちなみに、アメリカ東海岸沖に同様のウミウシが実際に生息する)
 個体としての生存を本能と見る前提自体を問いに付すこの事例には、そもそも個を超えて全体として生かされる生命の「理」が示唆される。生物が個体として自認するその身体もまた、さまざまな微少な生命の集合体である。ならば、その「理」は、一個の生物として生きること自体を、互いに生かし生かされ、生きている生命の全体とする見方にも通じるだろう。そうとして注目すべきは、同作が同時に、今を生きる生命体である人間を、過去にも未来にも、この世に二度と現われることのない、唯一の「個」として色濃く感じさせてもいる点だ。

現代に求められる信心の視界
 この物語では、感染拡大に立ち向かう医術師と、感染から生還した元戦争奴隷という、2人の男を主軸に、病や生命、人間、国家とは何かという壮大な問いが投げ掛けられる。そして、先のウミウシの話は、両主人公が相まみえた際に医術師から語り出される。重要なのは、その聞き手が、咬傷による感染を切っ掛けに獣の視界を幻視させられることとなった、もう一人の主人公であることだ。
 人間以外の視点から世界や自己を捉え返した物語は古今東西種々散見するが、そこで提示される視界の奇異さは同時に、奇異と見てしまう読み手側の「当たり前」を揺さぶってくる。つまり、驚くべきウミウシの生態は、生命に対する人間の認識の枠組みや尺度を露呈させるが、読者はさらに、生命の働きの果てしなさを、獣の身になって受け止める主人公の視界を通じて、生命それ自身の側から痛感させられることとなる。それは、教祖の教えとの出会いに通じる、視界の開かれである。
 他ならぬ唯一の「個」である「わたし」や「あなた」が、個を超えた生命全体として互いに関わり合い、生かされている。人間の計らいを超えたその働きに「天地」を感得してきたのが、教祖に始まるこのお道であろう。しかし、現代社会におけるさまざまな区分や管理を生きる中で、私たちは、ともすれば、その「天地」さえ閉じがちなままで思い描くことになっていないだろうか。全世界に広がるウイルスにより、生命の本来的な無差別性を目の当たりにさせられている今、「かわいい(かわいそう)と思う心」すなわち「神心」に発する信心の視界は、改めてその開かれを求められているように思われてならない。

文/白石淳平(金光教教学研究所所員)

投稿日時:2021/10/18 11:30:24.050 GMT+9



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